人間が努力するのは
欠如を埋めるためである
欠如を感じない人は
努力をしない
人間はいつ努力をやめるのかと考えると
欠如を感じなくなった時だ
大きな達成をするのは
大きな欠如を感じていたからではないかと推定することができる
努力しない人は本質的に欠如を感じていないのだろうと推定される
するとそれはそれで幸せということになる
すでに幸せだから
努力しないとも言えそうだ
ーー
悪妻のおかげで生涯努力したなどと
妻への感謝を語る人がいる
どのレベルの冗談かは人と場合によるが
一面の真実だろう
ーー
よくできた優しい妻は
夫をだめにする
認知症になりやすいのはそんな夫だ
妻に不信感をいだき
たとえば預金通帳を妻に触らせず自分で管理するような夫は
常に緊張感の中で生きているので
物忘れもしにくい
幸せすぎると
電話番号などもいくつもあって、しかも覚えていなくても教えてくれて、
何も不自由を感じないので
やおはり早く脳の萎縮が始まる
とっても幸せな人がいろいろなことに関心をいだいくとか好奇心旺盛というのは極めて一部で
幸せな人は何もしなくなるものだ
何かの欠如が巨大だから
ゴルフまたはゲートボールまたはトライアスロンに夢中になる
不幸せだから頑張ると定理に出来そうで
頑張るうちにある程度幸せになるのだから
そう考えると人間の幸せもあまり違わないようだ
すでに幸せだとあまり頑張らない、しかし幸せである
不幸だとかなり頑張るから少し幸福を感じることができる
とっても幸せな人がとってもがんばるというのは原理的に考えにくい
たとえば
とっても幸せな王子様がなぜ頑張るかといえば
民衆の不幸を知って悲しみ、民衆の幸福の欠如を埋めるために努力するからだろう
あるいは隣の国の王子様と比較して欠如を感じるからだろう
人民のために頑張ると自分の幸福を分散するわけで
それは王子様の自己実現にとっては大変良いことだろうけれど
周囲の人にとっては大変な迷惑だ
幸福な王子という話があるが
自分のところの王様がいつまでも愚昧であってくれたらいいと周囲は思っているだろう