通常の哲学とニーチェの哲学の違い
哲学は形而上学とも呼ばれています。メタフィジカルな学問だというのです。つまり物理的・現実的(フィジカル)なことにたいしてどのように人間が取り組むかという、現実(フィジカル)より上位(メタ)の構造・ルールについて研究するのです。たとえば、人間の肉体がどのような仕組みで動いているかというのはフィジカルな話ですが、人間はどのように生きているのか・どう生きるべきなのかというのは、メタフィジカルな話です。
さて、ニーチェがやっているのは通常のメタフィジカルな話ではありません。そのようなルールがなぜ生まれるのか・ルールを支配しているルールとは何なのか、という話なのです。いってみればメタ形而上学です。
なぜ人を殺してはいけないのか
たとえば「人を殺してはいけない」というルールについて考えます。「人殺しは絶対的な悪だ」「法律で裁かれるからやめとけ」「殺人者はキモい」「自分が殺されてもいいのか。社会にとって殺人は迷惑なんだよ」などなど、いろいろな意見があるでしょう。しかしこのレベルで善悪を議論しても絶対に決着はつきません。たしかにこれらの意見は常識的であり、市民の良識にかなう立派な主張です。しかしこう反論されたらどうでしょう。
「人殺しは絶対的な善だ。おれはそう信じている」「法律で裁かれたっておれは別にかまわない」「殺人をキモいと思うやつもいるが、おれはそうは思わない」「逆に社会の常識は殺人者にとっては迷惑だ」
こんなことを言ったら、ドン引きされるでしょうし、議論の最中においては「そういう考え方は間違っている。キチガイもほどほどにしろよ」という人格攻撃がはじまるでしょう。しかし、そういう人は殺人を肯定する論理を決して崩すことができません。ただ相手をキチガイだと罵ったり、根拠も提示せずただただ間違っていると否定するばかりです。
ここは重要なポイントです。要するにどちらも「自分がそう思っているから、自分の意見は正しいんだ」と主張しているだけなのです。つまり議論をしているのではなく、自分たちの信念こそが正しい・自分たちが信じていることこそが《真理》だと宣言しあっているだけなのです。要するにこれは自分たちの《信仰》を相手に強要しているだけなのです。
議論に見せかけた《信仰》VS《信仰》
一見議論をしているように見せかけて、実は《信仰》や願望を垂れ流しているだけ、というのはひどく滑稽です。野球にたとえるなら、試合をしていると見せかけて、実際はお互い選手宣誓しあってるだけという状況です。言葉のキャッチボールはおろか、そもそもゲームのルール自体をよくわかってません。感動的な選手宣誓をすれば、それがそのまま事実となり、自分たちの勝利につながると素朴に信じているのです。
困ったことにこの野球にはジャッジがいません。いるのは観衆だけです。これらの観衆は、より自分たちに都合のいいスピーチをしたほうを「勝者」にしようとします。選手は野球もせず、ただスピーチしているだけなのに、どうやって「勝者」を決めるというのでしょう?
答えは簡単です。気に食わないほうを暴力でボッコボコにするのです。
殺してしまえば「死人に口無し」というわけです。狂人のレッテルを貼って社会的に抹殺するのも同じです。そうすれば、自動的にもう一方が不戦勝となります。もちろん、この乱闘騒ぎに選手自身も参加しています。「野球しろよお前ら」とツッコミをいれる人は一人もいません。歴史上初めてのツッコミは、ニーチェが行った道徳批判ですが、その声はあまりにも小さいので、今も世界各地でこの乱闘騒ぎは続いています。
《信仰》を自覚し、《真理》を相対化しよう
「人を殺してはいけない」というのも、やはり《信仰》にすぎません。その《信仰》を世の中の大多数が共有すると、《真理》だとされます。しかし、実際はその教区限定の《真理》なのです。教区の外には、異なる《信仰》をもつ人だっているのです。信者たちは、異なる信者を批判するとき口々にこういいます。「自分たちの言っていることこそが《真理》だ。だって《真理》なんだから」。そして相手を異端者だと侮蔑します。
しかし同時に異端者というレッテルを貼られた人も、相手のことを同じように異端者だと思っているのです。そして自分たちの《信仰》こそが《真理》だと疑わないのです。
もうここまでくればお分かりでしょう。ありとあらゆる《真理》の起源は、そう信じているという《信仰》です。《真理》とはその定義上、絶対確実100%永久不変的に正しいもののはずですが、実際はある教区の中でそう信じられているだけです。絶対確実100%永久不変的に正しいから、絶対確実100%永久不変的に正しいのではありません。「絶対確実100%永久不変的に正しい」と信じて疑わない信者たちがいるからこそ、その教区の中で、絶対確実100%永久不変的に正しい、ということになっているのです。
《真理》性を議論するのは、政治ゲーム
通常の哲学では《真理》を相対化できませんでした。多くの哲学者は、あるテーマを与えられるとその《真理》性を熱心に議論してきました。それがいかに正しいか・正しくないかの議論を続けることによって、その《真理》性がはっきりとわかるはずと純朴に信じていたのです。
しかし悲しいことに、どちらの主張も、それが自分たちの《信仰》から生まれていることに気づきませんでした。結局この議論は、論旨とは関係なく声の大きな意見が勝ち残るという、きわめて政治的なゲームとなりました。
学者の間でもこうですから、実際にそれが社会的な議題となったときは、完全に政治ゲームとなります。自分たちとは違う《信仰》をもつ相手を異端として排除し、自分たちの《信仰》を唯一の《真理》だと偽装するパワーゲームです。その《信仰》が正しいから《真理》となったのではありません。その《信仰》がほかの《信仰》を踏み潰す権力を持っていたからこそ、《真理》となるのです。
《真理》を捏造するルールを議論すべき
さて、《真理》性を議論するのが結局は政治的なゲームにしかならないとするなら、メタフィジカルな学問に意味はあるのでしょうか? どんなにそれらしい口ぶりで議論しても、《信仰》のなすりつけ合いにしかならないのでは無駄ではないでしょうか? そこでニーチェはこう考えます。ならば、《信仰》がいかにして一般的な《真理》へと化けたか、その過程を研究するべきだ。《真理》がいかにしてでっち上げられるか、そのルールを議論すべきだ。
《真理》がどのような層にたいして都合よくできているかを調べれば、その起源がわかります。つまり、どんな信者たちの《信仰》だったかがわかるのです。さまざまな道徳を研究し、その系譜をたどることで、どのような《信仰》が《真理》へと化けやすいかもわかるでしょう。
権力への意志
権力者が、いかに自分たちの《信仰》を《真理》へと転換させ政治ゲームに勝利してきたかを理解するのは、とても重要です。他のゲームの参加者の行動が読めれば、自分に有利なようにゲームを進めることができるからです。黒い考え方でいやなのですが、誰もが好むと好まざるに関わらず、この政治ゲームに参加しています。「なにかを正しい」と考えていたら、それがすでに政治ゲームの参加表明です。たとえば誰もが《真理》だと思っている「人を殺してはいけない」という考え方は、殺人者(軍人を含む)には当てはまりません。そんな例外を認めたくない人達は「人を殺してはいけない」をより《真理》らしく偽装するために、例外を抹殺します。同類を集めて組織を作り、社会的な権力を握って、異端者を排除しようとします。逆に異端者のほうが組織力で上回り、自分たちのほうが抹殺されたりもします。共同体内部の小競り合い、国家規模の戦争、宗派同士の対立……これらは正義のための闘いだ・《真理》のための必要悪だなどと紹介されますが、結局は政治ゲームです。
この政治ゲームはそのゲーム性を意識するだけで、ある程度うまく立ち回れるようになります。それがどんなゲームでも、ルールに無知な人間は利用されるだけですから。
ニーチェは、政治ゲームで優位に立ちたいという欲望を「権力への意志」と表現しました。この「権力への意志」を弱肉強食の非倫理的な概念だと批判する人もいますが、本来「権力への意志」はそれが善いか悪いかといった道徳的な話ではありません。むしろ「権力への意志」を持ち、政治ゲームに勝った《信仰》だけが《真理》となり、善いとされるのです。この意味で「権力への意志」は、善いか悪いかといった対立の向こう側(善悪の彼岸)にある事実と言えます。
政治ゲームの功罪
さてここからはニーチェの思想に対する私の意見です。ぶっちゃけて言うと私はニーチェ的な思想は好きでありません。「人を殺してはいけない」という道徳が単なる《信仰》だなんて、吐き気がするほど感情的な反発を覚えます。それに私には政治ゲームの勝者があまり幸福そうに見えないのです。自分がそんな黒いゲームの参加者だなんてことは夢にも思わない、頭ん中お花畑の人間のほうが幸福なのかもしれません。またいいように利用されてるだけの人、誰かの手のひらの上で踊らされているだけの人だって、案外楽しくやっているかもしれません。(カート・ヴォネガット「タイタンの妖女」参照)
政治ゲームの弱者でも、自身の《信仰》の中に幸福を見出すことができます。キリスト教のように、政治ゲームの弱者のために作られた《信仰》はたくさんあります。個人の人生の中では《信仰》が政治ゲームと相克するのです。《信仰》をもとにした妄想ゲームが政治ゲームを乗り越えることだって十分ありえます。
妄想ゲーム:政治ゲーム = ニュートン力学:量子力学 と対比するとわかりやすいかもしれません。現実は全て政治ゲームです。「リンゴが木から落ちる」というニュートン力学的な現象だって全て量子力学に従います。しかしいちいちシュレディンガー方程式をときながら生きるのが超絶面倒くさいように、政治ゲームを意識して生きるのはしんどいし面倒くさいです。大衆の《信仰》にとけこんで、一緒に妄想ゲームやってるほうが楽だし、気持ちよく生きられます。あたかもニュートン力学で日常のほとんどの問題が解決してしまうように、妄想だって日常では「使える」道具なのです。むしろ妄想ゲームにこそ、ぐちゃぐちゃに絡み合った政治的対立の解があるような気もします。(山本弘「アイの物語」参照)。
妄想ゲームと政治ゲーム
政治ゲームに自覚的に生きるのも、あえて無自覚的に生きるのも、あなたの自由です。しかし、妄想ゲームか政治ゲームかという単純な二元論では現実を把握できません。政治的にうまく立ち回るためにあえて愚昧な宗教に入信するという打算、環境をとにかく守りたいという盲信がついには国家や経済を動かすという世界情勢などなど……。
妄想ゲームと政治ゲームの相克をいかに生きるか、というのは思想的に大きな問題ですし、私が小説に期待しているテーマでもあります。
ーー上の筆者が参考にしましたと書いているのが次の文章http://www.interq.or.jp/snake/totugeki/sinwa.htmlこれを採録
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神話から現実へ! とつげき東北
「コーヒーとミルクとが何対何の比率で混ざったカフェオレが、最も美味しいカフェオレか?」──この形式の問いに短絡的な答えを出してしまうもの、それが当然の常識であり、守るべき道徳であり、愚にもつかない神話である。 Ⅰ 最も美味しいカフェオレとは何か 最も美味しいカフェオレ、それは何か宗教的でさえある。仮にカフェオレの美味しさがコーヒーとミルクの比率だけで表せるとしても、好みの違い、状況や時間的な差異などの要因によって、その「最良の」比率は当然変化する。単純にミルクが嫌いな人もいるし、逆の人もいる。十分前にコーヒーを三十杯も飲まされた人にカフェオレを勧めれば「ミルク多めにしてください」と涙目に懇願するかも知れない。コーヒーとミルクの理想的な比率は、決して初めから客観的に与えられたり、普遍的に妥当するものでないことは明らかだ。どんな基準(誰が、何に対して、どのくらい、など)で解釈するかによって判断や評価は変化するのであって、一つの基準を絶対視して「最も美味しいカフェオレはこれだ」と真面目に語るのは、今や滑稽に違いない。 別の場合も想定してみよう。「能力」という言葉があるが、この解釈基準も全く主観的・固有的に決定されざるを得ない。わかりやすい例として「数学の能力」を取り上げよう。数学の能力? 数学の能力はある種のテストで点数化されるが、このテストの、まさに「配点比率」がこれを大きく左右する。「微分積分は得意だが、図形問題は苦手」な人は、解析学重視のテストでは高得点を取れても、幾何学重視のテストではそうはいかない。「解析学と幾何学とが何対何の比率で配点されたテストが、最も客観的な数学の能力を表すか?」──。開き直って「解析学」と「幾何学」とに分けてテストを行う方法も、結局は「客観性」を追求するための何の根本的手段にもならないだろう。幾何学とは言え、角度を求める問題が重視されるべきなのか、円の性質を考察する問題が重視されるべきなのか、それとも……。 仮に誰かが、数学の能力の客観的基準は、解析学と幾何学の比率が一対一のテスト得点で表される、と主張したとしよう。しかし、そのような基準で測られた「数学の能力」で、実体的な「数学的活動の上手さ」を「客観的」に捉えられるだろうか? 中学校の数学教師には微積分の知識は必要ないから、たとえ「客観的」テストの点数が悪くても、仕事に必要な分野が得意な者が向くだろう。結局「能力」とは、極めて個別的な状態をモデル化した単なる一つの解釈であり、その基準は状況や目的によって常に変化するものなのだ。 それにもかかわらず、常に客観的な判断が語られる種々の状況が実際にある。偏差値の高い者よりも、心の優しい者の方が立派だとされたり、「偏差値ではない賢さ」こそ必要だと言われたり、或いはそれらのバランスが重要だとされたり、要するに幼児向けのおとぎ話である。解釈の基準を何も考慮せずに「バランス」だとか「本当の賢さ」だとかを口にするのは「最も美味しいカフェオレ」について雄弁に語るに等しい。あらゆる判断は解釈主体の基準に依存する。故に──別に筆者がそう考えているわけではないが──「偏差値(学歴)こそ全てだ」と捉える解釈も「あり」の筈である。そうした捉え方をする者を「可哀想だ」とか「そんな人生はつまらない」とかと批判してみても、「哀れさ」や「人生の価値」の解釈もまた個人に相対的であるわけで、何の意味も為さない。 初めに基準ありき、この視点をもう少し原理的な形式に適用してみる。一足す一は二だ、こうした「正しさ」の判断もまた、脳構造の状態(基準)に依存する一つの解釈でしかない。その証拠に、脳構造的に「一足す一は二だ」をどうしても「正しい」と判断できない状況は可能である(物理的にだけでなく、より現実的に心理的にも可能である)。この場合の配点比率(脳構造)は、数学テストの配点比率よりは自然に形成されるものであるにせよ、結局は一種の環境的・文化的なイデオロギーに他ならない。一足す一は二だ、と解釈すればつじつまが合うからそれは正しい、と考えるのはナンセンスだ。つじつまを合わせるだけなら、例えば「夏は必ず春の後にやってくる。だから春は夏の原因だ」と言ってよいことになる。そうではなくて「正しい」という判断そのものが「最も美味しいカフェオレ」の判断と同様に、独断的で非客観的な解釈にしか過ぎないと捉えることが重要なのだ。全ての「正しい」は、単純に解釈の問題であり、解釈の基準や「配点比率」の決定要素は多様なのだから、一足す一は百だ、というのもまた一つの解釈として可能でなければならない。そんなことを言い出したらどうしようもない、ということは、差し当たって問題ではない。それは「便利か、不便か」の問題であって、筆者の分析とは何の関わりもないことである。原理的・理論的に、一足す一は百であり得なければならないのだ。もしそうではないとしたら──それなら「最も美味しいカフェオレ」はどこにあるのだろうか? Ⅱ 「私は神だ」という真理 先ほど「美味しさ」の基準が相対化されると共に「正しさ」の基準も相対化された。これは何を意味するか──? 客観的に「正しい」ものなど存在しないということ、つまり一般に「正しい」とされている全てのものは「正しさ」とは根本的に異なった何ものかから導出されるということだ。 それでも「正しい」ものは存在する? 我々が先端自然科学を極め、或いは神と交信して──とにかく何か「正しい」ものに辿り着いたとして──そこで目が覚める、ということは考えられないだろうか? 全てが夢にしか過ぎないという仮定を、我々が取り除くことはできるのだろうか……? 夢の中で、必死に「これは夢ではない」と証明し、「正しい」ものを探している者の姿を想像してみると良かろう。絶対の「正しい」を述べることは「最も美味しいカフェオレ」を探すのと同じで、神話的で宗教的で滑稽な態度であることが理解されるはずだ。 今、証明という言葉を用いたが──もとより「証明」だとか「根拠」だとかといったものは、本質的には「正しさ」と全く関わらない。「正しさ」が共有される状態は「正しさ」の基準が一致した上で初めて可能となる。だから、初めから基準や解釈が全く異なっている者には、それらは何の助けにもならないのである。ここに「私は神だ」と信じている者がいるとせよ。彼を見て、確かに我々はおかしいと感じる。あらゆる科学的根拠を以て、それを否定することができる。ただし、あくまでも「我々から見た」我々の正当性が保証できるだけだ。「私は神だ」の者が、常識や科学などの共通理解を全く持たず、神としての判断基準(私は神であるから、何を言われても私が正しい)を持っているとすれば、彼は決して論破されない。深刻な意味で、あらゆる判断・認識・解釈は、ことごとく一種の信仰である。彼が「私は神である」と信じたことは、我々が「彼は神ではない」と信じたことと、何も形式的に変わりない。我々は「私は神だ」という主張さえも原理的に正しく批判できないのだ。 筆者の記述に色々の反論もあろう。「そういう合理的な考え方はつまらない」といった的はずれの反感から、「正しいものがないなら、この記述も正しいとは言えない」などのありがちな反論、その他種々の反発や批判が想定されるが、結局それらは全く問題ではない。要するにそれらを含む全てが解釈に過ぎず、どんな解釈も、常に「そうではない」と解釈され得るということが重要なのである。もし仮に神や科学や、筆者の記述に対する何らかの反論などが「絶対のもの」であるとしても、それが筆者と何の関わりがあろう? ──ない。たとえ「絶対のもの」だろうと、筆者にそうと解釈されない限り、筆者にとってはそうではないのだ。そしてこのように解釈する筆者がいる限り、あらゆる判断、あらゆる「正しさ」は、決して絶対的でも原理的でも、客観的でさえもあり得ない──(筆者の記述はあまりにも非常識だ、と思う者は、例えば現代思想を少しでもかじってみると良い。筆者がいかに学問的常識を語っているかが一目で解るだろう。自然科学を見ても同様である。数学や論理学の原理的な正当性は証明されないということを、ゲーデルが数学的に証明している。「常識」もまた解釈なのだ)。 Ⅲ なぜ人を殺してはならないのか 「私は神だ」を否定するためには共通理解(自然科学的知識や論理実証主義など)が必要なのと同様に、証明の正当性や根拠の正しさなどの判定には「真偽」や「正誤」の基準を規定する構造、共通の信仰が必要となる。そして筆者が問題とするのは、まさにこの、共通の信仰が成立しない可能性についてなのである。 「私は神だ」と言う者と我々との関係──共通の信仰、共通の「正しさ」が異なっている者同士の関係は、常に必ず暴力的である。我々の全ての行為は「私は神だ」の彼に対して、極めて不当で、理解できず、非平和的なものとなるだろう。もし彼が「私は神だから、人を殺すのも私の自由だ」等と言い出したらどうだろうか。我々は、彼の主張──ひょっとすればそれこそ正に真理かも知れない主張──を初めから全然信じようとせず、ただ我々の信仰に基づいて彼を黙殺し、笑い飛ばし、時には罰するのである。双方ともに、自分から見れば自分は全く正当で、相手は不当なのだ。つまり、そこには「正しさ」ではなく、ある種の権力(暴力的・排他的に獲得される自由)だけが存在した。単なる自分勝手な信仰を「正しいもの」として押し通し、相手を抑圧するということ。権力、これこそあらゆる「正当性」の歴史的な、論理的な、基礎的な原理に他ならない。「正しさ」の基準が互いに異なるならば、自分の捏造した「正しさ」の基準を押し付ける力の程度だけが「正しさ」を根本的に規定する唯一の因子でなければならない。 信仰の差異は権力的な対立を生むことが示された。それでは、唯一残されたかに見える「平和的な」状態、信仰が共有される場合はどうだろうか。筆者の分析によれば、このような場合を含む全ての行為・状況が、純粋に権力的なのだ。仮に「解り合い」が可能になり、「平和的な」状態ができたとしよう。しかし、一人でもそれに同意できない者がいれば、「解り合い」「平和」自体が彼に対する状況的な権力差を生むだろう。例えば「人を殺してはならない」という「平和的な」信仰を多くの者が持てば持つほどに「私は神だ」の者は権力的抑圧を受ける。「私は神だ」などと言い出す者は流石に一人もいないとしても、それに近い信仰──ある種の新々宗教や、オカルトもそうである──を持つ者の存在は、容易に推察できるだろう。一つの平和が、一つのより非平和的な状況を原理的に要請するのである。 このように、信仰が共有されていない状態は権力的な状態であり、信仰が共有されている状態も権力的な状態であるから、我々は常に権力的な状態にあることが示される。したがって「人を殺してはならない」などという要請も、単に自分勝手な暴力にしか過ぎないのだ。その暴力を気にしないなら、人を殺すことは何も「間違った」ことではない。原理的な意味で、我々はそれを「間違っている」と示すことができないからだ。「いや、それは理論上の話で、現実的ではない」と思う諸君。筆者は、それこそが一つの暴力だと言っているのだ──真面目に構築された理論を(それも学問的には「当たり前」のことを)直感だけで「おかしい」と決めつけるということ、ついには「理論上間違っていない」はずの殺人犯を直感だけで軽蔑するということ……。 「正しさ」の対立を含む全ての対立は最も権力的に解消され、「平和的な」状態を含む全ての状態は最も暴力的である。解釈と権力こそ原理。 Ⅳ 「生きる資格のない人間」とは誰か 気晴らしついでにだが──ここで一つの「正しいもの」の破壊を試みよう。ここで取り上げるのは、「道徳」という中心主義の牙城だ。道徳といっても多様だが、筆者はこの言葉を定義するつもりはない。もし道徳家がそうした論理分析的な信仰を共有しているならば、「道徳の正当性には論理的・科学的根拠が存在しない」の一言で済んだ筈である。 現代日本の道徳の一つの典型は「他者への気遣い」である。「人を殺してはならない」というのも「他人に迷惑を掛けてはならない」の一形式であるし、特に日常的な道徳的追求は「他者への気遣い」の欠如の指摘を伴うからだ。例えば「自分の信念を貫くことは素晴らしい」といったような信仰も広義の道徳的概念と見なせるが、このような態度も「他者への気遣い」が欠如した場合、一般に道徳的とは見なされない。その他詳細は省くが「他者への気遣い」こそが最もありがちな道徳因子の一つであると思われるのだ(当然、この他にも道徳的要請の因子は様々にある。「ルールは守らなければならない」とか「命は大切だ」とかいった要請は「他者への気遣い」に必ずしも回収できないだろうが、そのことは筆者の主張に何の問題も持ち込まない)。 他者への気遣いが、道徳的評価の配点比率において重視されるとすれば──筆者は相当に道徳的な人間だ。何故なら、世間で「人格者」だと思われている連中でさえ、他者への気遣いが最も欠如した者たちだからである。世の道徳的発言を聞くがいい。「他人に迷惑を掛けるな」──誰にとっての「迷惑」だろう? 「私は神だ」と言って人を殺す人間は、確かに我々にとって「迷惑」には違いない。しかし法律や常識や科学などの、原理的に「正しい」わけではない信仰に基づいて彼を批判・抑圧することは、また彼にとってこの上なく「迷惑」なのだ。そして結局は、我々の「迷惑」の基準だけが「客観的な、妥当な」基準として、言ってみれば「最も美味しいカフェオレ」として罷り通るのだ。ここには、社会的弱者(他者の立場)への気遣いなど微塵もない。このように筆者は道徳家とは違って「少数者への気遣い」ができるが、それにもかかわらず、筆者が道徳家連中に認められることはないだろう。人殺しを咎めない人物などダメだ、「他者への思いやり」とはそんなものではない──道徳家はそう叫ぶ。 要するに、道徳の一つの不道徳的特徴は、その「対話不可能性」にある。道徳家は、何が道徳的か(配点比率)の基準を言わず、筆者が道徳の要請に従って少数者を気遣い、道徳の暴力性を示したのにもかかわらず、苦し紛れに基準をすり替えて──というより、何とかお茶を濁して──、相変わらず「道徳は正しい、殺人は良くない」と言う。科学的に見れば道徳などでっち上げ以外の何物でもないのに、道徳家は道徳の正当性根拠を示そうとしないし、できない。何も語らずとも絶対に正しい──この態度は、彼らさえ批判する「迷惑な」新々宗教信者とどう違うのか伺いたいものだ(いや、実際にはもう聞きたくない。曖昧で感情的な思いつきを、小学生のように凡愚にしゃべり散らかされるのが楽しいのは、せいぜい最初の一、二回だけだ)。 その上で、道徳家は常に「被害者意識」を持つものと思われる。この着想こそ、道徳の不道徳的特徴の第二項に他ならない。「押しつけ」だとか「迷惑だ」だとかの発言に、その兆候は顕著に現れる。「価値観を押しつけるな」という解釈もまた典型的な「押しつけ」であるし、ある人にとっては「迷惑を掛けるな」という解釈ほど迷惑なものはない。それにも拘わらず、道徳家は常に「自分たちが正しい=相手が加害者だ」と捉えるのである。 これらの二つの特徴をまとめると、次のように言える。道徳に基づく全ての発言・行為は道徳家中心主義的であり、道徳という宗教的な迷信を信じない者に対する抑圧的な暴力であり、即ち権力の技術に他ならない、と。「道徳というルールを守れ」と言うのは「ルールを造る者の言うことを聞け」と同義であり、従ってルールを造る権力こそが正しいとする権力主義の典型なのである。おやおや、彼らはあれほど「押し付け」や「権力」、「少数者排除」を嫌悪するというのに……。「ルールがなければ困る」──地球環境保護のルールは、決して先端産業の企業社員にとって良いものとは限らない。しかし実際に筆者が幾度となく体験した驚くべきことは、道徳家はこの種のことを聞いてもなお、恥ずかしげもなく「全体として、ルールは有益なのだ」などと言うことである。これこそまさに、図々しく「客観的に最も美味しいカフェオレはこれだ」と権力的に迫る態度に他ならない。 その他のあらゆる道徳も、それが普遍の共通信仰ではあり得ないものであり、その上で何らかの要請を直接的或いは間接的に含む以上、結局は権力に他ならない。つまり少数者の排除を原理的に伴わざるを得ないものなのである。 筆者は道徳家諸氏に次のように忠告してさしあげよう。まず、君たちは道徳の要請に従ってもう少し道徳的思いやりを持ち、少数者(他者)の視点を獲得する義務がある。これは君ら自身がいつも他人に強要していることだ。例えば「生命の尊厳」などという原始宗教なみの風潮によって、いかに科学研究──医学や生物学から、工学や心理学に至るまで──が妨害されるかを考えるといい。次には、君たちが道徳的である限り、結局は道徳は完全に克服されなければならない。少しでも道徳的に行為しようとする以上、君たちは何もできないだろう。例えば研究者のことを気遣えば一部の道徳家に「迷惑」を掛けるし、逆に一部の道徳家を気遣えば研究者に「迷惑」を掛けるからである(もちろん、科学研究が妨害されて「迷惑」を感じるのは、研究者ばかりではない。現代の医学では治療不可能な難病にかかった「罪のない」多くの人々もそうだ)。解釈は多様なのだから、いかなる行為・思考・態度も、少なくとも極めて特異な誰かには「迷惑」であり得ることが想定できなければならない。君たちの存在自体を「迷惑だ」とする捉え方も、決して「間違っている」筈がないではないか。君たちが得意げに口にする「貴方には他人の気持ちを想像する能力がない」という浅はかな文句は、全くそのまま君たち自身に向けて語られるべきだろう。そしてあらゆる論理的分析能力の決定的な優劣が、果たして私たちと君たちとの「総合得点」にどのように影響するか……。 今や、種々の道徳的要請自体が、道徳と矛盾することは誰の目にも明らかだ。我々はもはや、どんな行為も不徳と見なし得る。これを無視して中途半端に「他者を気遣い=多数者に権力的に味方し」、「思いやりに欠ける」「人を殺すことは良くない」などという理由だけで──自分たちの「正義」を押し通す力を持っていることの他に何の「正当な」理由もなく──他者を軽蔑するから、道徳は典型的な暴力に等しいと言うのである。そしてその上、あろう事か「人間性」がどうの、「こころの優しさ」がどうのと臆面もなく語り始めるものだから、「道徳家」こそが最も「恥ずかしい」人物だと言うのだ。 翻って言えば、我々は論理的に自らの利益だけを求めることが可能なのである(エゴイズムに反発するヒューマニストは直ちにある種のシャーマニストであり、しかも結局エゴイストである──つまり純粋なシャーマニストである)。「道徳家」に求められるものは、無根拠で矛盾した概念を盲信できる非論理的性格と、少数者に目の届かぬ慢性的理性障害と、感動を装った暴力装置を正当化する程の権力的傲慢さである。……一体誰が、このような人物を「人間的に立派」と呼んだのか。筆者の「配点比率」で言えば、彼らは零点に近い落ちこぼれであり、あらゆる出来損ない中の出来損ないであり、それ自体として最も価値のない人間である。この記述に対して、もし諸君が反感を持つとすれば、それは最も「不徳な」態度であることを、諸君は論理的に理解できなければならない──。 Ⅴ 利用対象としての「神」 現実のどんな状態も、一種の「権力的状態」である。悪意を以て相手に接することばかりか、ただ存在するということさえも、原理的に単なる暴力だからだ。だからこそ、存在するための力、行動するための力……これらを我々は必要とする。意識の外にある全ての存在(無意識を含む肉体、他者、環境など)の運動様式を意識の欲する状態に変更すること、これが権力の形式であり、権力の度合いは自由の度合いである。 先に、全ての解釈は信仰であると述べた。ということは、他者の持つ信仰との接し方は、権力の程度を左右するはずだ。そこで一例として、道徳のような集団的な「ルール」との関わり方を考えてみる。 まず、信仰を一切共有できない場合を考える。この状態を権力の第一段階であるとしよう。これに属する人は、ルールを全く把握(理論化)できず、彼らにとって他者とは、単に「何故か自分を責める者」「突然自分を攻撃する(罰する)者」にしか過ぎない。これは彼らの、集団に対する決定的な権力的劣等を意味する。例えば新々宗教の信者のような立場は、この段階に近いだろう。 次に、権力の第二段階として、不可逆的に信仰を共有するという状況を考えよう。ルールを破ることは無前提に「してはならないこと」であると信じることによって、「ルールを把握できない」第一段階より圧倒的に権力的な状態に達することができる。法律や道徳を信じれば、世間的には殺人犯よりも権力的な地位を得られるのである。一般的な大衆の立場は、第二段階の存在である。 ところがこの第二段階は、未だ権力の最高段階ではない。ルールを含む共通信仰を逆に突き放し、対象化する立場こそが最も権力的なのだ。信仰するのではなくて、相手の信仰に取り入って「信ずるフリ」をしていられるということ、利用対象として「信仰」を把握するということ。つまり可能な全ての選択の内から、最も意識の充足に結びつくだろう行為を選択できること、これこそが最も権力的な態度に他ならない。例えば道徳の要請に縛られて自分のやりたいことができない状態とは、極めて非権力的な、精神の不自由な状態である。道徳など時代や地域によって呆れるほど変化するのだから、自分の道徳だけを信じ、「正義を貫いて」利益を失うなどというのは愚の骨頂としか表現しようがない。権力の第三段階が達せられるのは、信仰を共有するのではなくて、信仰を分析し、理解し、信仰を利用する立場においてである。 相対主義者といえど、何もかもの「ルール」を無視してしまうのが「便利」なのではない。これは権力の第一段階への後退しか意味しない。「ルール」を利用し、権力の集中を計ることこそが重要なのだ。余りにも自明の事実は、ルールを守ること自体には何の価値もなく、ルールを守り、或いは時にルールに背くことによって得られる意識の充足だけが本質だということである。従うべき「正しい」もの、自分が「してはならない」こと、頭の弱い常識や道徳や風習、そんなものに縛られている状態は、あらゆる意味で盲目的である。道徳という一つのルールを突き放すのと同じように、全ての信仰を単なる利用対象として捉えなければならない。 Ⅵ われわれ傲慢な者たち ここに記述してきたことをまとめて、権力主義と名付けよう。結局のところ、権力主義とは何なのか──? 一 権力主義とは、一つの世界解釈の姿勢である。自分の意識を世界の中心に置くこと、全ての意識外の存在を意識充足の手段と捉え、それを技術として利用すること、世の中の全ての連関を権力連関として解釈すること──そしてこれらが理論的に一貫され、把握されているということ。要するに、権力主義者とは単にまともな分析家であり、学問の世界での「常識者」であり、実践家であり現実主義者である。 二 権力主義者は道徳家より不徳な人物ではない。先に示した通り、全ての状態は権力的なのだから、誰も道徳的ではない。誰も人格者ではない。そのことを明確に把握し、道徳を含む既存の価値構造を利用するか、蒙昧に道徳神話を信じ続けるかどうかの違い──頭に霞がかかっているかどうかの違い──だけが圧倒的に存在するのである。 三 権力主義者は必ずしも社会的な権力を目指す者ではない。最も強大な社会的権力者であることと、彼が権力主義者であることは独立である。 四 権力主義者は軽率ではない。彼らは一切を疑って掛かる。常識的なものはなおさらである。感動的な名言・警句などどうでもいい──感動で飾らねば残らないような分析を必要としない程度には利口だからである。 五 権力主義者は「正しい」を持たない。彼らにとって科学や論理は、高度な権力の技術にしか過ぎない。 六 権力主義者は道徳を持たない。どれほど卑怯な手口で搾取されようと、いかなる不平等があろうと、それは自身の、状況に対する権力の低劣以上のものを意味しない。彼らは決して、不平や不満を「制度」や「悪」や、果ては「運命」に吐露し、こそこそと自分を「被害者」「善人」に仕立て上げるような真似はしないだろう。彼らがそれをする場合は──技術としてである。 七 同様に「異常」「独断」「権利」「責任」「正当性」「妥当性」──これらは権力の一つの表現に過ぎないから、権力主義者はこれらを技術としてだけ用いる。 八 権力主義者は無秩序主義者ではない。彼は「ルール」を破るときの不利益の度合いを理性的に考慮する。制度が充分な権力を保っていればよい。 九 意外に思われるかも知れないが、権力主義者は決して「厄介な人物」ではない。権力主義の理念に基づく限り、彼らは平常は穏やかで、気のよい、その上最も理性的な人物だろう。彼らを心底から怒らせることは極めて困難である。というのも、彼らはどんな行為に対しても「道徳的怒り」を感じないし、理性的冷静さを持っているからである。しかし敵に回すとこれは一変する──道徳的な歯止めなど欠片も存在せず、極めて狡猾に権力を行使する。 十 ところで、次のように述べて良いだろう。世の中の全ての人間は権力主義者であるか愚者であるか、何れか一方である──と。この後者の者たちは、筆者がこうして解りやすく語った「現代思想の初歩の初歩」さえも何一つ理解できない。彼らは例えばこう言うのだ──「君がそう考えるのは君の自由だが、それを押し付けるのは良くない」だの、「もう少し人間らしい考え方も必要だと思う」だの、「君の理屈は正しいにしても、別にそんなに道徳を攻撃する必要はない」だのと。筆者がここまでに──苛立たしいほどくどくどと──記述してきた通り、これら全ては典型的な無知である。そうした判断も単に一つの可能な解釈に過ぎないということ、従って全く異なった解釈もあり得るのだということ、そしてそれらのどれもが「正しい」ものではないということ(少なくともそういう解釈も可能なのだということ)。つまり結局は──自分たちの解釈を押し通す権力の問題なのだ……。 さて、このような権力主義に対して、常識主義・道徳主義などは何を意味するのだろう? ──要するに凡愚な理想主義、「現実」を離れた神話主義である。世の中の凡庸な発言はみな、どこか遠い世界のことしか語らない。人間が「平等に生きる権利」を原理的に持っていたり、「自分に負ける」ことは「恥ずかしい」ことであったり、利己性に基づかない気高い行為が存在したり……その他全てが、奇妙なほど、一つの例外もなくまやかしである。世間的日常は常に、何かしら感動的な神話的欺瞞に満ちており、実状が全く分析的に理解されない。学問への適性が「人間性を育てる」教育と、いったい何の関わりを持つというのか。それらは無関係であるというより、むしろ負に相関する。「人間性」の基準や根拠さえ問えないほど非分析的な者は、徹底的に学問的分析作業から追放されなければならない(そうすることこそが結果的に「世のため人のため」になるに違いない)。 神話を語る頭のおめでたい者たちに繰り返して聞こう。「誤った」考え方、「無意味な」理屈、「大切な」命、「価値のある」人生、「改善」されるべき差別社会、「秩序」を乱す宗教団体、平和で争いのない「より良い」世界、そして「最も美味しい」カフェオレ。 ──誰にとっての?
ーー賛否は別にして分かりやすく書く技術のお手本
ーーニーチェの道徳の系譜、善悪の彼岸については、岩波を推薦したいです。
木場 深定さんの訳がものすごく強度高いです。
道徳の系譜 http://bit.ly/aktPUw
善悪の彼岸 http://bit.ly/97xF8P
それらが終わったら、
権力への意志 http://bit.ly/bMxSG1
に進むのかなと思います。
とのこと