パートナー選択に当たりいろいろと相談がある
ーー
お見合いのような事になり
結婚する本人以外は全員が賛成しているとする
しかし本人は気が進まない
なぜ嫌なのかを合理的に説明できない
なにしろ周囲の全員が賛成するくらいいい人なのだ
しかし気が進まない
どうするか
これはわたしの妄想なのだろうか
ーー
逆に
恋愛が進展して結婚したいと思うが
周囲の全員が反対している場合もある
周りの人達はあの人のいいところを知らないのだと思う
でもこれは私の妄想なのだろうか
ーー
妄想なのかどうか
さて妄想とはなんだろう
そして客観的判断で正しい判断とはなんだろう
ーー
関係者が30人くらいいて29人が賛成で自分だけが反対という場合は
どうだろう
それでも自分が正しいと言うためには特有の手続きが必要である
科学的真理を証明する手続き
しかしこれがまたややこしい
誰がどこで行っても同じ結果が出るという認証実験が必要だ
しかし実際にはそんなに単純ではない
(誰がどこで行っても同じ結果が出る婚姻などというものはない)
また一般人にとっては
頭のいい人間に丸め込まれる危険があるので
科学の手続きも信じられない
(頭のいいやつがいい女を手に入れるに決まっている)
そんなわけで
現代社会はおおむね多数決の原則を採用している
正しいとは限らないが
政治的に最悪の決定は回避できる可能性がある
などと苦しい弁明が用意されている
なんだ結局、多数決を正しいことと採用している社会なのだ
ならば結婚に際しても多数決しかないではないか
多数決で負ければ妄想に過ぎない
ーー
多数決の原理の向こうにある事情は次のようなものだ
頭の悪い人間は
統計の原則により優れた人間は少数に決まっているし
少数派が頑張ってもどうせ多数派が暴力で勝つと思う
頭のいい人間は
多数決は洗脳でどうにでもできると思う
殺し合いよりは合理的だ
だから多数決で物事が決まるのが合理的だと
みんなで合意している
どちらも自分が優位だと信じているが
これは頭の悪い側の錯覚である
ーー
そうはいうものの結婚には特別の事情がある
神から授かったこの美貌を自分の自由にしてよいのかという問題である
女性の9割くらいはこの悩みで眠れない日がある
肉体も知性も命もDNAも神から授けられて
一時的に私が守っているものだ
それは最大限大切にしなければならない
自殺してはならないのはそれが理由である
神の意志はどこにあるか
私の妄想ではない、神の意志はどこにあるか
そう考えるとやはり多数決が正しいような気もしてくる
30人のうちの29人が賛成しているならば
たぶんそれがいいのかなと普通ならば思う
それが集団の中で生きる人間の同調性でもある
同調圧力である
ひとりだけ違う方向で生きるのは
とても疲れて能率が悪い
わたしは私のものだから私の好き勝手にしていい
なんていうのはあるはずがないのだ
ーー
ということは
周囲の意見に反して
ある人を好きになったり嫌いになったりするのは
おかしいことになる
みんなが好きなスターをわたしも好きなのは
健全なのだ
だからこそ
魅力のピラミッドが出来て
淘汰圧が発生して
種の進化が促進されるのだ
ーー
しかし
政治的に多数決を採用している社会が
婚姻に関しては多数決を採用せず個人の意思決定の自由だとしているのである
これは
目もくらむような矛盾ではないか
憲法はおかしい
社会にとって次世代を正しく優秀に確保することは最重要の課題である
政治課題に関しては議論して多数決をするのに
婚姻選択に関しては個人の勝手というのはありえないだろう
婚姻は社会的なことである
たとえば将来の税収を左右する
将来の国際競争力を左右する
将来の犯罪率を左右する
まるっきり政治的課題そのものなのだ
ーー
たぶん、社会的な強制力によって「よい婚姻」を達成した場合にも
実際の「種の遺伝」は個人の合意によって形成されると達観していて
結局は個人の合意とした方が
制度と実質が適合すると判断したものだろう
なんともニヒルな憲法ではある
嫌なやつと結婚しても
好きなやつの子を産むだろうと
暗黙のうちに前提している
ーー
さて
みんなが反対する結婚を押し切っていいのだろうか
みんなが賛成する結婚を拒みきっていいのだろうか
みんなはなぜ私と違うことを考えるのだろう
やはり妄想なのだろうか
説得不可能な、現実に反した、不合理な確信が妄想である
合理性の究極の担保は多数決しかないと憲法が明示しているのだから
つまりは少数者の確信が妄想なのだと定義して支障はないように思う。
しかし少数の定義は曖昧で
ほとんどどんな場合でも
より少数とより多数を定義できるので
意味を成さない
ーー
歌マイウエイで
「信じたこの道を私は行くだけ」という
(中国人美人留学生が歌い上げる。うまい。
日本語学校で「北国の春」とかこの歌を覚えるらしい。)
信じたその道を行かれたら
社会としては大きな迷惑である
信じたその道が社会の望む道と実は一致しているから
マイウエイでいいのである
なんのこ
とはないお釈迦様の手のひらの上の孫悟空なのだ
とはないお釈迦様の手のひらの上の孫悟空なのだ
ーー
そう考えてみると
みんなが反対するのに結婚するというのも予定された道のようである
みんなが賛成するのに結婚を拒むというのも実は予定された道なのだ
事情を知っている家族は少数しかいない
せいぜい十人程度のものだろう
遥かに大きな数で多数決をしたらどうなるか
たぶんその人個人の判断に近くなるのではないか
結局人間は多数決に従っているらしい
ーー
憲法の原則は本当は誤りではなく
多数決というのも
実は現実の国民ではなく
理想の国民の多数決というすり替えがある
外交や病原菌など一般大衆に説明しても分からないし
情報を公開したら台なし、というタイプの問題も多い
2009年のインフルエンザではゴールデンウィーク前には騒がず
ゴールデンウィークでお金を使わせてそのあとで
実はインフルエンザの危険があると飛行場で足止めした
現実の国民は愚かで何も知らないし部分的な理性しか持ち合わせていない
理想の国民は合理的で充分な理性を持っている
だから理想の国民の声に従うのだと政治家は言うことができる
それが政治家の信念である
自分はそう信じるといえば妄想だが
自分は理想の国民の多数決に従うといえばそれは立派な合憲的判断である
ーー
最後まで成り行きを見守り最後は自分で決める
それが究極の多数の声に近いのだ
妄想でない限りは
しかしそれが妄想なのかどうかについては
知る方法が実はない
というわけで答えがでない
循環論になる