現実を否認して
言葉でもう一つの現実を作り出すことは
女性たちが複数で共同して実現することがある。
男性はどちらかといえば
現実に働きかけて
現実を動かしたいと考えるようだ。
女性はそうではなくて、関係する女性をつかまえて、
言葉で別の微妙にずれた現実を作り出すようだ。
あらすじとしては現実のままだけれど、
解説をつけるとこんな風で、というような、
理由付けまたは解釈が独自であったりする。
たぶん女性たちも現実を変えてしまいたいとは思うのだろうが、
長い間の習慣で女性だけでは動くこともできず
経済力の根本は男性に握られ
何より言葉で現実を変更することも簡便さを知っているので
どうしても
言葉による現実変更または解釈変更を考えついて、
女性の間に流し、
ひいては男性にも浸透させるような場合がある。
女性の方が言葉が豊かで現実を否認することがで来るくらいは現実から距離があり、
しかも女性の方が妄想に親近的で物語的世界を生きていることかある。
物語を作り出すことによって生存を救っている部分も確かにあるのであって、
これを否定すればいいというものでもない。
その延長にいろいろな物語世界は成立するわけだし、それはそれでいい。
どうしてもつらい現実があったとき、
その解釈を様々に豊かにして、妥協して生きることができる程度にまですることは、
誰にもゆるされることである。
子どもの社会でも暴力は大きな要素であって、
女性たちは様々な暴力によって
抑圧されてきた長い歴史がある。
筋肉が少ないのは男性に比較して歴然としている。
そのような不利な状況を
どうすればいいのかという時、
同情に値する部分もあるのであるが、
やはり今一度、言葉による現実操作に閉じこもることはいいことかと問い直してもらいたいと思う。
特に、家族内での力動が問題になることがある。
妻が夫の何かが気に入らない場合、
子どもに言葉を吹き込んで自分の子分にして、
被害的物語の共有者にしてしまうことがよくある。