閑情賦・序文
初張衡作《定情賦》,蔡邕作《靜情賦》,
檢逸辭而宗澹泊,始則蕩以思慮,而終歸閒正。
将以抑流宕之邪心,諒助於諷諫。
綴文之士,奕代繼作,並固觸類,廣其辭義。
余園閭多暇,復染翰為之。
雖文妙不足,庶不謬作者之意乎?
初め張衡《定情賦》を作り,蔡邕《靜情賦》を作れり。
逸辭を檢へて澹泊を宗とし,始めは則ち蕩(うご)かすに思慮を以てし,
而して終に閒正に歸す。
将に以て流宕之邪心を抑へ,諒に諷諫に助けあらんとす。
文を綴る之士,奕代繼いで作り,
並びに類に觸るるに固(よ)りて,其の辭義を廣めたり。
余は園閭暇多く,復た翰を染めて之を為れり。
文の妙は足らずと雖も,庶はくは作者之意を謬らざらん乎?
漢の張衡は《定情賦》を作り、ついで蔡邕は《靜情賦》を作った。いづれも放埓な文辞を抑制して、淡白を旨としていた、始めこそは放蕩に流れていても、最後は端正にまとめている、あたかも邪まな欲望を抑えて、諷諫の一助にしようとしたかのようだ、
その後、さまざまな文士が現れ、同じような主題を取り上げては、その辞儀を広めてきたものだ、
余は、田舎住まいで暇も多いことから、先人にならって筆をとり、同じ主題を掘り下げてみようと思った次第である、文の妙は足らずといえども、先人たちの意に反せざることを願う
閑情賦・本文
夫何環逸之令姿 夫れ何ぞ環逸之令姿の
獨曠世以秀羣 獨り曠世以て羣に秀づるや
表傾城之豔色 傾城之豔色を表し
期有德於傳聞 有德を傳聞に期せん
それ何と美しい姿の、世に秀でたることよ、そなたの美しさを称え、有徳のさまを世に知らしめよう
佩鳴玉以比潔 鳴玉を佩びて以て潔きを比し
齊幽蘭以爭芬 幽蘭と齊びて以て芬を爭ふ
淡柔情於俗內 柔情を俗內に淡くし
負雅志於高雲 雅志を高雲に負ふ
そなたの清らかさは鳴玉のようで、そなたの薫り高さは谷間に咲く蘭の花のようだ、そなたの優しい心は俗世間では目立たぬが、志の高さは雲にも比せられる
悲晨曦之易夕 晨曦の夕れ易きを悲しみ
感人生之長勤 人生の長き勤しみなるを感ず
同一盡於百年 同じく一(みな)百年に盡き
何歡寡而愁殷 何ぞ歡び寡くして愁ひ殷きや
朝の日は暮れやすく、人生は苦しみばかり、人の寿命は百年に過ぎないというのに、何故喜びは少なく愁いばかりが多いのか
褰朱幃而正坐 朱幃を褰(かか)げて正坐し
汎清瑟以自欣 清瑟を汎して以て自ら欣ぶ
送纖指之餘好 纖指之餘好を送り
攘皓袖之繽紛 皓袖之繽紛たるを攘(はら)ふ
瞬美目以流眄 美目を瞬きて以て流眄し
舍言笑而不分 言笑を舍みて分たず
そなたは赤い帳をかかげて正座し、琴を弾じて自らを慰められる、そなたの細い指先からは妙なる音が流れ出し、音につれて袖先が舞い上がる、時に美しい目を瞬いて流し目を送り、口元をほころばせては何を言おうというのだ
曲調将半 曲調将に半ばならんとし
景落西軒 景 西軒に落つ
悲商叩林 悲商 林を叩き
白雲依山 白雲 山に依る
曲の調べが半ばにならんとする頃、夕日が西の軒端に沈んだ、秋風が林に吹き渡り、白雲が山の端にただよう(悲商:秋風)
仰睇天路 仰ぎて天路を睇め
俯促鳴絃 俯して鳴絃を促せば
神儀嫵媚 神儀 嫵媚たり
舉止詳妍 舉止詳妍たり
そなたは天を眺め上げると、目を伏せて琴に向かう、心ざまの何とやさしく、振る舞いの何と麗しいことよ(神儀:心ざま、舉止:立ち居振る舞い)
激清音以感余 清音を激して以て余を感ぜしむ
願接膝以交言 願はくは膝を接して以て言を交へん
欲自往以結誓 自ら往いて以て誓を結ばんと欲するも
懼冒禮之為侃 禮を冒すの侃(あやまち)たるを懼る
余はそなたの発する清音に感じ入り、そなたと膝を接して言葉を交わしたく、是非そなたの傍に行きたいと思うのだが、礼を失するのではと躊躇するのだ
待鳳鳥以致辭 鳳鳥を待って以て辭を致さんとすれば
恐他人之我先 他人我に先んぜんことを恐る
意徨惑而靡甯 意 徨惑して甯(やす)きこと靡く
魂須臾而九遷 魂 須臾にして九遷す
鳳鳥を使いに立ててわが思いを届けようと思うのだが、他人が先を越すのではと恐れられてならぬ、思いは千路に乱れ、心はめまぐるしく揺れ動く
願在衣而為領 願はくは衣にありては領と為り
承華首之餘芳 華首の餘芳を承けん
悲羅襟之宵離 悲しいかな 羅襟の宵に離るれば
怨秋夜之未央 秋夜の未だ央きざるを怨む
願わくばそなたの衣の襟となって、首の香りをかいでみたい、だが悲しいことに衣は宵に脱ぎ捨てられ、長い夜を耐え忍ばねばならぬ
願在裳而為帶 願はくは裳にありては帶となり
束窈窕之纖身 窈窕の纖身を束ねん
嗟溫良之異氣 嗟 溫良の氣を異にすれば
或脫故而服新 或は故きを脫ぎ新式を服る
願わくばそなたの裳の帯となって、そなたのか細い腰を束ねてみたい、だが気候が変われば旧い裳は脱ぎ捨てられてしまうかもしれぬ
願在髮而為澤 願はくは髮にありては澤となり
刷玄鬢於頹肩 玄鬢を頹肩に刷はん
悲佳人之屢沐 悲しいかな佳人屢しば沐し
從白水以枯煎 白水に從りて以て枯煎するを
願わくばそなたの髪に塗る油となって、そなたの髪をとかしてみたい、悲しいことには沐浴の際、水で洗い流されてしまうだろう(澤:髪油)
願在眉而為黛 願はくは眉にありては黛となり
隨瞻視以閒揚 瞻視に隨って以て閒かに揚らん
悲脂粉之尚鮮 悲しいかな脂粉の鮮かなるを尚び
或取毀於華粧 或は華粧に毀たれんことを
願わくばそなたの眉に塗る黛となって、そなたの視線の動きに従い自らも上下してみたい。悲しいことには白粉はたびたび塗り替えられ、そのたびに消されてしまうかもしれぬ
願在莞而為席 願はくは莞にありては席となり
安弱體於三秋 弱體を三秋に安んぜん
悲文茵之代御 悲しいかな文茵の代り御して
方經年而見求 年を經るに方りて求められんことを
願わくば蒲のむしろとなって、そなたのか弱い身体を秋三月の間休ませてあげたい、悲しいことには秋の終わりには、トラの皮の敷物によって取って代わられるかもしれぬ(文茵:模様のあるトラの皮の敷物)
願在絲而為履 願はくは絲にありては履となり
附素足以周旋 素足に附きて以て周旋せん
悲行止之有節 悲しいかな行止の節ありて
空委棄於床前 空しく床前に委棄せらるるを
願わくば生糸で編んだ履となって、そなたの素足とともに歩んでみたい、悲しいことに歩まぬときには、空しく床前に履き捨てられたままかもしれぬ
願在晝而為影 願はくは晝にありては影となり
常依形而西東 常に形に依りて西東せん
悲高樹之多蔭 悲しいかな高樹の蔭多くして
慨有時而不同 時ありて同にせざるを慨(かこ)つ
願わくば日中は影となって、そなたと挙動をともにしたい、悲しいことに木陰多く、時には共にいることが出来ぬかも知れぬ
願在夜而為燭 願はくは夜にありては燭となり
照玉容於兩楹 玉容を兩楹に照らさん
悲扶桑之舒光 悲しいかな扶桑の光を舒べ
奄滅景而鑶明 奄ち景を滅して明を鑶(かく)すを
願わくば夜の間は蝋燭となり、柱の間にそなたの姿を照らしたい、悲しいことに朝が来れば、日が昇ってわが光を隠すかもしれぬ
願在竹而為扇 願はくは竹にありては扇となり
含凄颷於柔握 凄颷を柔握に含まん
悲白露之晨零 悲しいかな白露の晨に零ちては
顧襟袖以緬邈 襟袖を顧みて以て緬邈たるを
願わくば竹で編んだ扇となって、そなたの手に握られ涼しい風を送りたい、悲しいことに露が落ちる頃には、そなたの襟袖に後ろ髪を引かれつつ去らねばならぬ
願在木而為桐 願はくは木にありては桐となり
作膝上之鳴琴 膝上の鳴琴と作らん
悲樂極以哀來 悲しいかな樂しみ極りて以て哀しみ來り
終推我而輟音 終に我を推して音を輟(や)めしむるを
願わくば木にあっては桐となり、そなたの膝の上の琴となりたい、悲しいことに楽しみ極まり悲しみ来れば、弾かれることもなくなるかもしれぬ
考所願而必違 願ふ所は必ず違ふを考ふれば
徒契闊以苦心 徒に契闊して以て心を苦しましむ
擁勞情而罔訴 情を勞して而も訴ふる罔きを擁して
步容與於南林 步して南林に容與す
棲木蘭之遺露 木蘭の遺露に棲(やす)み
翳青松之餘陰 青松の餘陰に翳れん
わが願いはどれも満たされることがない、いたずらに身を切られるような辛い思いをするばかり、悶々とした思いを抱いて、南林に徘徊しては、木蘭の露の傍らに身を休め、青松の影に身を隠そう
儻行行之有覿 儻(も)し行き行きて覿ること有らば
交欣懼於中襟 欣びと懼れと中襟に交ごもならん
竟寂寞而無見 竟に寂寞として見ること無く
獨悁想以空尋 獨り悁想して以て空しく尋ねん
もしそなたに会うことがあらば、わが心中には喜びと恐れが交差することだろう、だがついに会えることなく、心に憂えを抱きながら空しく訊ね回るばかりだろう
斂輕裾以復路 輕裾を斂めて以て路に復り
瞻夕陽而流歎 夕陽を瞻て流歎す
步徙倚以忘趣 步み徙倚として以て趣を忘れ
色慘悽而矜顏 色は慘悽として顏を矜す
裾をからげて帰り道につき、夕日を眺めては溜息をつく、我が歩みはとぼとぼとして行き先もわきまえず、顔色は優れずして涙さえ流れるのだ
葉燮燮以去條 葉は燮燮として以て條を去り
氣凄凄而就寒 氣は凄凄として而て寒に就く
日負影以偕沒 日は影を負ひて以て偕に沒し
月媚景於雲端 月は媚(なまめ)かしく雲端に景(ひか)る
葉ははらはらと枝から落ち、空気は寒々としてきた、日は沈んであたりは暗くなり、月が雲の端にかかる
鳥悽聲以孤歸 鳥は聲を悽にして以て孤り歸り
獸索偶而不還 獸は偶を索めて還らず
悼當年之晚暮 當年の晚暮を悼み
恨茲嵗之欲殫 茲の嵗の殫きんと欲するを恨む
鳥は悲しい鳴き声をあげながら巣に戻り、獣は伴侶を求めてうろつきまわる、悲しいかな余も次第に年をとって、今年もまた去らんとするのを恨む
思宵夢以從之 宵夢以て之に從はんと思へども
神飄颻而不安 神飄颻として安からず
若馮舟之失棹 舟に馮りて棹を失へるが若く
譬緣崖而無攀 崖に緣りて攀る無きに譬ふ
せめて宵の夢の中でそなたに会いたいと思うのだが、心は飄々として定まらない、船に乗りながら棹を失い、崖をよじらんとしてつかむところのない気持ちだ
于時畢昂盈軒 時に畢昂は軒に盈ち
北風凄凄 北風凄凄たり
耿耿不寐 耿耿として寐られず
眾念徘徊 眾念徘徊す
起攝帶以伺晨 起きて帶を攝(むす)びて以て晨を伺ふに
繁霜粲於訴階 繁霜訴階に粲たり
星星は軒先に輝き、北風はわびしく吹く、目が冴えて眠ることもならず、様々な思いが去来する、起き上がって帯を結び朝の来るのを待たんとすれば、階には霜が降りて白く輝いている
鶏歛翅而未鳴 鶏は翅を歛めて未だ鳴かず
笛流遠以清哀 笛は遠きに流れて以て清哀たり
始妙密以閑和 始めは妙密にして以て閑和なるも
終寥亮而藏摧 終には寥亮として藏摧く
鶏はまだ羽根を収めて寝ているというのに、遠くに笛の音が聞こえる、始めはしめやかで穏やかな音であったが、次第に高らかに響き、聞くものの腸を砕くほどだ
意夫人之在茲 意ふに夫人の茲に在りて
託行雲以送懷 行雲に託して以て懷ひを送るならんか
行雲逝而無語 行雲逝いて語無く
時奄冉而就過 時は奄冉として過に就く
もしかしたら、そなたがそこにいて、雲に託して思いを送ってくれるのだろうか、だが雲は去って言葉は届かず、時はたちまちに過ぎ去り行く
徒勤思以自悲 徒らに勤しみ思ひて以て自ら悲しみ
終阻山而帶河 終に山に阻まれ河に帶る
迎清風以袪累 清風を迎へて以て迎累を迎(しりぞ)け
寄弱志於歸波 弱志を歸波に寄せん
いたずらに思い煩ったばかりに、そなたとはついに山河に隔てられてしまったようだ、もう思い煩うことはやめて、心中の悩みを風に乗せて吹き払い、惰弱な心を東流する川に流そう
尤蔓草之為會 蔓草の會を為すを尤(とが)めて
誦邵南之餘歌 邵南の餘歌を誦ぜん
坦萬慮以存誠 萬慮を坦(うちあ)けて以て誠を存し
憇遙情於八遐 遙情を八遐に憇はしめん
男女の密会をこそこそと求めることはやめ、高らかな歌を歌おう、妄想を打ち明けて清い心に戻り、雑念を吹き飛ばしてしまおう