2003年(平成15年)にリリースされた「世界に一つだけの花」はSMAPの代表的なヒット曲になりました。
しかし、この歌詞の中にある「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」という考えをビジネスの現場に持ち込まれたら、ビジネスリーダーはたまったものではありません。
最近の若手社員に多い「俺様社員」や自己満足で終わっているような人たちは、少子化の影響とゆとり教育(*)で大事に大事に育てられてきたせいもあり、もともとオンリーワン信仰が強く、彼らは自分たちの存在そのものの価値がこの歌詞によってより強化されたと勘違いしているようです。
会社組織では何らかの成果を出してこそ、発言力も増し、存在価値が高まっていきます。一流大学を出たから無条件に尊重されるなんてことはありません。仮にあったとしても、そんなのは採用の時点までです。
何の根拠もない自信やプライドは決して悪いものではありません。それをもとに一生懸命がんばれば、結果も出せるようになるでしょう。
ただ、こちらにまったく非がなくても、場合によっては頭を下げなければならないのがビジネスの世界です。自分のやりたい仕事だけを選び、それ以外は椅子に座ったまま何もせず「大丈夫、僕は(私は)今のままで充分に価値のある存在だから」と自分に言い聞かせ、入社後ずっと訳のわからない自信やプライドのみを持ち続けられたら、周りはたまったものではありません。
確かに、私たちが若いときも根拠のない自信はあったと思います。ただ、多くの人たちの愛の鞭で、その根拠のない天狗の鼻は折ってもらえたものです。
(*)「ゆとり教育」について1992年(平成4年)9月から学校では第2土曜日が休みになる。1995年(平成7年)4月からは、第4土曜日も休みになる。さらに、この年、中学校1年生の年間の5教科授業時数が年間665時間から560時間に削減された。2002年(平成14年)4月からは、完全5日制になる。一般的に「ゆとり教育」とは、2002年以降の学校教育を指しますが、本書では私は1995年以降の学校教育を「ゆとり教育」と呼んでいます。
こんなパロディーをご存じでしょうか。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の現代版です。
私はたまたまインターネット上で見かけたのですが、その説明によると、宮沢賢治の故郷である岩手県盛岡市の小児科の医師が、職業上たくさんの子供たちと接してきて、まさにその通りだと思い、学会で発表したものだそうです。
作者はどこかの校長先生とありました。
雨ニモアテズ 風ニモアテズ
雪ニモ 夏ノ暑サニモアテズ
ブヨブヨノ体ニ タクサン着コミ
意欲モナク 体力モナク
イツモブツブツ 不満ヲイッテイル
毎日塾ニ追ワレ テレビニ吸イツイテ 遊バズ
朝カラ アクビヲシ 集会ガアレバ 貧血ヲオコシ
アラユルコトヲ 自分ノタメダケ考エテカエリミズ
作業ハグズグズ 注意散漫スグニアキ ソシテスグ忘レ
リッパナ家ノ 自分ノ部屋ニトジコモッテイテ
東ニ病人アレバ 医者ガ悪イトイイ
西ニ疲レタ母アレバ 養老院ニ行ケトイイ
南ニ死ニソウナ人アレバ 寿命ダトイイ
北ニケンカヤ訴訟(裁判)ガアレバ ナガメテカカワラズ
日照リノトキハ 冷房ヲツケ
ミンナニ 勉強勉強トイワレ
叱ラレモセズ コワイモノモシラズ
コンナ現代ッ子ニ ダレガシタ
どうですか。言い得て妙だと思いませんか。
日本という国は資本主義国であるはずなのに、教育の現場では、自由競争の厳しさに背を向け、社会主義国でもないのに平等ばかりが声高に叫ばれるようになってしまいました。
競争を知らない人は、競争に勝つことによって得られる充実感や達成感などのメリットを知りません。また、競争には失敗や挫折がつきものですが、そこから多くを学べることも知らずに生きていくことになってしまいます。
努力なくして、また負けるリスクなくして認められるなら、誰だって努力はしなくなるでしょう。こうして、軟弱な世代が確立されていったのです。
私が塾を経営していたとき、生徒に共通して感じていたのは、彼らの日本語能力の低下でした。
彼らは往々にして自分流の言葉や表現を使って物事を説明するものだから、こちらとしては意味がわかりません。ただ、親や学校の教師をはじめとした周りの大人たちは、少子化とゆとり教育のせいか、子供たちを大切に扱いました。言葉足らずや表現力の不足など稚拙な日本語であっても、彼らの真意を酌み取ろうとしました。
つまり大人の側が気を利かし、彼らをわかってあげようと努力したのです。その結果、彼らはわかってもらおうという努力をしなくなってしまいました。
何を言っているのか、または何を言いたいのかが不明であれば、当然、私としては詳しい説明を求めるわけですが、私が詳しい説明を求めると「じゃあ、いいです」という答えが返ってきたものです。「じゃあ、いいです」という言葉を聞くたびに、私は相当カチンときた記憶があります。
ここ数年の若手社員のインタビューで多かったのが、「社内のコミュニケーションは、いつも表面的なもので、誰も私のことをわかってくれない」という不満です。
しかし、よく話を聞いてみると、自分をわかってもらうための努力は何もしていないんです。「わかってくれない」と文句を言うなら、まだマシかもしれません。ひどい人になると、ふて腐れたり、わざと失敗したり、遅延行為をしたり、その不満を態度で示すものだから、上司からすると余計に腹が立ちます。
努力というプロセスや苦労を経て、結果に到達することの大切さや楽しさを知らなければ、あきらめも早くなります。
競争の経験のない人は負けた経験もありません。負けや失敗や絶望から立ち直る経験もしていません。若い人たちは挫折を恥とみなし、その結果、ノーと言われること、断られることなど、失敗を極端に恐れます。
こういった彼らの傾向は、私たちの世代から見ると、チャレンジ精神に乏しいと感じてしまいます。