集会の自由はなぜ人権として保障されるのかと質問されると
そういえばそうねえと考えさせられる
国家権力というものは、国民が集会を開くことを妨げてはならないということであって、
それが政治的自由の根本になるとの考えからだろう
しかしそう考えてもやはり集会の自由は何か特別な響きを感じさせる
現代ではネットやテレビがあるので
具体的な場所を占有しない擬似的な集会が可能である
そういったものは集会の自由というよりは通信の自由に属するのだと思うが
では現代では通信の自由だけで充分なのかといえば
そうではなくて
やはり集会の自由が必要であるらしい
具体的にひとつの場所に集まって一体となることがなぜ人権なのだろうか
たとえば先日の沖縄基地移転問題で移転反対の住民集会を開いて
移転反対の住民意思を鮮明にしたと報道された件がある
これを、動員して政治的にアピールしただけとする意見もある
集会は自己啓発のためではなくて
個々の潜在的な力を政治的パワーに転化する装置ということができるのだろう
そしてその奥には集団が意思決定する場合の集会の古くからの根本的な意義があるのだと思う
集会という場で人間は精神を引きずられたり感動したり共感したり
あるいは洗脳されたり
いろいろな事態が可能なのだ
株主総会とかも
根回ししてあるし、情報はネットと出版物で充分だしというわけにはいかないらしい
国会議員の各党の両院議員総会なども紹介される
ロックコンサートで手拍子を始めたり
演劇を見て一体感を体験したり
具体的な場所に同時に集まって何かをするということが人間にとって
本質的に重要な営みであるらしい
ーー
そのように考察した上で、集会機能の障害というものを精神医学では考えるわけだ