40代と50代を隔てるタイムリミット

次のような記事サラリーマンの意識の一面を描いて興味深い
“市場価値”を悟ったエリートの悲哀と希望  40代と50代を隔てるタイムリミット
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 世の中で最も怖いことの1つに、自分を知る、ことがある。自分の市場価値、と言い換えてもいい。
 「長いこと1つの組織でずっと過ごしてくるとね、だんだんと自分の市場価値みたいなものが分かってくる。まぁ、40代後半から何となくそれは分かってくるんですけど、まだね、その時はかすかな光みたいなものが見えるわけ。でもね、さすがに50代になるとそれが全く見えなくなる」
 「可能性がなくなるっていうのは、結構しんどい。気がつくと組織にしがみついている自分がいてね。若い時にはそういう上司たちを見て、格好悪いなぁと思っていたのに。トホホですね」
 先日、経営者層を対象に「生きる力の強い部下の育て方」なるテーマで講演した後の懇親会で、大手広告代理店の部長という男性が苦笑しながら、こう漏らした。
 「可能性がなくなるっていうのは、結構しんどい」とは、どうやら出世も含めた自分への可能性を言っているようだった。「ひょっとしたら部長くらいで終わってしまうかも」というのと、「これ以上は到底無理。部長止まり。役員にはなれない」というのとでは明らかに違う。限りなくクロに近いグレーが、完全なるクロだったと悟る年齢。それが50代、ということなのか。
 「40代の頃にはね、全く感じることのなかった感覚ですよ。50代になるとね、どういうわけか自分に自信が持てないことが多くなる。何ですかね、これって。こういうことって普通なんですか? 部下に“お前ならできる!”って言葉をかける前に、僕が誰かからかけてもらいたいよね~。“お前ならできる!”ってね」
 「人間の働きのメカニズムの中で、自分を信じることほど、大きな力はない。“お前ならできる!”と、自信を持てない部下の背中を押してやってください」。私が講演で話したことに対して、その男性はこう言った。
 私はまだ40代だし、1つの組織にずっといたことはないので、彼の気持ちの真理をまだうまく理解することができない。でも、「自分の市場価値はたいしたことがない」と気がついた時の、やるせなさ、だけはよく分かる。
幼なじみが教えてくれた“市場価値”
 3年ほど前、幼なじみの編集者に「今のままじゃ、B級の文化人だ」と言われたことがあった。
 確かに知名度も、経験も、まだまだ未熟。そんなことは言われなくても、自分だって分かっている。だから、「うわぁ、正直なこと言うなぁ。幼なじみはさすがに容赦ないなぁ」と図星ゆえに戸惑いながらも、彼女の指摘に納得した。
 ところが、その後に彼女が続けた言葉で、その納得感は言いようのない、やるせなさに変わった。
 「○×さんとかは、やっぱりコメント上手いし、人気もあるでしょ。ああいう風になってほしいんだよね」と。
 ○×さん……。よく情報番組にも出ているコメンテーターだ。でも、「偉そうなこと言ってるけど、何者でもないじゃない」と私が思っていた人物だった。
 何も世間から評価されるために働いているわけではない。だが、世間からの評価でしか、自分の価値を見極めるのは難しい。幼なじみの“〇×さん発言”は、私の市場価値を測る1つの目安になった。
 B級どころか、何者でもない人、以下なんだ――。
 そんな自分の“市場価値”にショックを受けた。当時、既に健康社会学者としての講演やら、講義やら、連載やらが、ちらほら増え始め、少しずつではあるけれど、自分の存在価値が世間で認められ始めた実感があった。それだけに余計に戸惑った。
 ただ、「まだまだこれから経験を重ねて……」と思えたので、「くそ、やってやる!」と何とか悔しさをエネルギーに変えることができた。冒頭の男性の言葉を借りるなら、「かすかな光」みたいなものが見えたから、「やってやる!」と思えたのだろう。
 これが40代と50代の差なのかもしれない。
 40代のキャリア人生が“まだ10年以上”あるのに対して、50代は、“あと数年”。40代だったら挽回できるチャンスがあるが、50代にはそれがない。だから自分の市場価値を受け入れるしかない。
 特にヒエラルキーのある組織で長年、上を目指して働いてきた、いわゆる“エリート”たちにとって、50代はしんどい時期となる。
 ヒエラルキー組織では、トップに近いところまで進める人はごく一部だ。1000人いたら、1人か2人。そのほかの、ほとんどの人たちは必ずどこかで消えていく。若いうちに権力パワーゲームに敗れた人は、「まだ、○年ある……」と、次なるものにベクトルを向けることができる。
 ところが、最後の最後まで頂を目指し、「あともうちょっと」というところまで行ってしまうと、その時には既にどうすることもできない状況になっていることに気づく。
 40代の頃の「役員になれるかも」という期待が、「役員にはなれない」という確信に変わる50代──。 入社してから30年余り、周囲の羨望のまなざしを感じ、それなりの優越感に浸ってきただけにショックも大きい。次の世代に抜かれるのも時間の問題だ。
 それが50代特有の“自信のなさ”であり、むなしさなのだ。
 そこで今回は、中高年(何だか古くさい言葉ですけど……)、ミドル(これも何だかオヤジっぽい言葉だ……)のエリートたちの切ない気持ちについて、考えてみようと思う。
自信の揺らぎがコンプレックスに変わる
 「上昇停止症候群」──。これは精神科医の小此木啓吾氏が、1980年代に『モラトリアム人間を考える』(中公文庫)という本の中で使った言葉である。
 上昇停止症候群は、それまでエリート街道を歩んできた中年のサラリーマンが、ライバルや後輩が先に昇進して、自分に昇進の可能性がなくなった時に陥るものだ。無気力になったり、喪失感が強まったり、自信をなくしたりと、うつ傾向に似た症状が認められている。
 特に上昇志向が強く、それまでの椅子取りゲームが激しい組織にいた人ほど、上昇停止症候群に陥りやすい(ちなみに40代でもこの症候群にかかることがある)。
 ここまで来るのに、自分なりに頑張ったし、大変だったし、周りから称賛されることも多かった。ところが、ここから先はどんなに頑張ったところで、先に進める見込みがない。このポジションに就くまで、この年になるまで、ここで終わりが見えるとは決して思っていなかった。
 そんな思いが、上昇停止症候群につながり、50代が『喪失』の年代と呼ばれているゆえんの1つでもある。
 さらに、自分に対する自信の揺らぎは、ある種のコンプレックスに変わることがある。
 多くの場合、組織の出世レースに挑んできた人は、多かれ少なかれ男性特有の“計算”をしながら生きてきた人だ。その“計算”が意味をなさなくなった時、自分が組織に泳がされていただけだったことに気づかされる。
 その気づきは、計算することなく真っ向勝負で挑んでくる若手社員や、プロ意識に富んだ女性たちに対するコンプレックスとなる。そして、それでもどうすることもできない自分に、やるせなさを感じてしまう。
 「俺は、結局、組織の中でしか生きられない」──。
 冒頭の男性が言った“組織にしがみついている自分”に余計に歯がゆさを感じてしまうのだ。
 彼はこんなことも言っていた。
 「50歳を過ぎるとね、なるべく目立たないようにしようと思うんですよね。若い時って、自分の存在をいかに周りに知らしめるか、みたいなところがあるでしょ? それが最近は目立たないようにそっと息を潜めていますよ」
 う~む、何とも切ない。それまでは鼻息を荒くし、自分の存在を周りにアピールすることに躍起になり、快感を得てきた人なのに……。まるで授業中に答えが分からない時に、決して当てられないようにと肩をすくめ、息を殺し、見つからないようにした時と同じだ。組織に残り続けるため最高の掟は、「決して目立つな」ということなのか。
 かつてオーストリアの心理学者で医師のヴィクトール・E・フランクルがその著書『夜と霧』(みすず書房)の中で、自分の存在意義を見いだすことができず、自分の意思で行動しても、発言しても、それが何の役にも立たない、それでも、そこで生きるしかない、という状況になった時、人間は“群衆の中に消えようとする”と説いていた。
 ナチスの収容所における人間の心理の変化を克明に記したこの本には、今の世知辛い世の中で暮らす私たちに共通する心理を見いだすことができる。
 ――かくして強制収容所における人間が文字どおり群衆の中に「消えようとする」ことは、環境の暗示によるばかりでなく自分を救おうとする試みでもあったのである。5列の中に「消えていく」ことは囚人がまもなく機械的にすることであったが、「群衆の中に」消えていくということは彼が意識して努めるのであり、それは収容所における保身の最高の掟、すなわち「決して目立つな」ということ、どんな些細なことでも目立って親衛隊員の注意を惹くな、ということに応じているのである――『夜と霧』より
 これ以上の出世はない。でもここに至るまでにはそれなりの苦労もあったし、つらいことだってあった。だからせめてこのポジションだけは守りたい。何か失敗して始末書でも書かされて、降格になったり、関連会社にでも飛ばされたりしてはたまらない。今のまま、ここで生きるのが最善の策なんだ。
 こんな気持ちになった時、収容所でフランクルたちがそうだったように、“群衆の中に消えてしまおう”と心が動く。目立たないようにすることが、最大の保身なのだ。
 恐らくそんな、“息を潜め、それでもそこにいようとし続ける”この男性のような人に対して、世間は厳しいことを言うに違いない。
 「そんな風にしがみつかないで、さっさと早期退職でも何でもしてほしい。そういう人たちがいるから若い世代が育たないんだ」
 「だから言わんこっちゃない。会社の組織にしか居場所を見つけてこなかったからでしょ。他にも居場所を見つけておけば、そんなことにはならないよ」
 恐らくこう言う。9割以上の確率で。そんな働き方をしてきたその人が悪い、そんな働き方しかできない日本の社会が悪い、と非難することだろう。
周りよりも本人が一番よく分かっている
 どちらも正論。その通り。ごもっとも。それらの意見を批判する気は毛頭ない。でも、そんな正論通りに生きられないのが人間だ。「自分は周囲に流されずに、自分で泳ぐぞ!」と高い志を抱いても、気がつくと流されていたなんてことだってあるかもしれないではないか。
 それに……、多分、周りがとやかく言わなくても、本人が一番よく分かっているはずだ。そして、どうやったって組織にしがみつくことさえできなくなる日がさほど遠くない将来に待ち受けている、ということも、本人が痛いほどわかってる。
 群集の中に消えようとも、何をしようとあと○年で定年を迎えることはどうやたって変らない。たとえ再雇用制度を利用して、定年を一定期間延長したとしても、多くの場合、給与は削減され、管理職の場合にはヒラに戻らされる。それまでの部下たちに頭をさげ、部下たちの下で働かなくてはならなくなる。
 そんな状況が分かるだけに、そんな道を選んでしまう自分を情けなく思うからこそ、コンプレックスまで感じ、罪悪感にも似た感情を抱いてしまい、自信が揺らいでしまうのだ。
 さらに、エリートであったことが余計に、目立たないように息を潜めてまで、組織にしがみつこうとさせてしまうことがある。
 大企業の偉い人、という社会的ステータスの高さは、ストレスに対峙するための大きな傘だ。大企業でエリート街道を歩んできた人は、この傘の効果を無意識に実感している。
 その傘は社内よりも社外で、役に立つ。だから余計に、しがみつこうとしてしまうのだ。トップまで上り詰めた人がいつまでも居座ろうとするのも、これと同じ心理だ。
 また、社会的な地位の高さは、組織以外の居場所作りを困難にさせる原因になる。
 何というかうまく言えないのだが、自分の立場以上に自分の組織にプライドを持っているので、自分とは関係ない、あるいは自分たちとは同列ではない組織を排除する傾向がある。1つの組織のトップをずっと走り続けてきた人ほど、意外と組織の外の人には冷たいのだ。
 それに、そもそもが若い時からヒエラルキー組織の頂点を目指して、組織の中でだけで生きてきた人たちだ。組織以外のつながりを今さら持てと言われても、なかなかできるものではない。
 私の父も大きな組織でずっとやってきた人だったので、いまだに地域とつながりを持てずにいる。いや、持てず、ではなく、持たないでいるように見える。
 リタイアした後はゴルフざんまいの日々を送ってはいるが、ゴルフ仲間はすべて現役時代の仕事関係の人たちや、大学の同級生たちだけ。地域の人たちとのかかわりはほとんどない。過去の人間関係だけで生活が成り立っていて、中年期以降の新たなかかわりや、仕事を離れてから新たにできた友人などはいない。
 そんな父を見ていると、最後は母しか相手にしてくれる人がいなくなるんじゃないか、父親のゴルフ仲間がみんな逝ってしまったら、私が相手になるしかないかも、などと余計な心配をしてしまう。
 これが1つの組織で生きてきた人たちの、特有の難しさなのかもしれない。頭では分かる。でも、気持ちがついていかない。情けないと思う、でも、それしかできない自分がいる。弱くて、情けなくて、そして、時にずるいことをしてしまう。正論だけでは生きられない。それが人間なのだと思う。
泳がされるのをやめて、自分で泳ぐ
 では、少しでも自信を取り戻し、“消えてしまおう”なんて寂しいことを思わないようにするには、どうしたらいいか?
 恐らく自己を肯定するしかない。
 どんな人間にもそこに至るまでのヒストリーがある。自分がやってきたこと、頑張ってきたこと、成し遂げたこと。自分の、自分だけのヒストリーを肯定するのだ。
 そこには他人の評価は存在しない。あくまでも、自分自身の自分への評価である。自分のヒストリーを評価し、そこに自信を見いだすのだ。
 “エリート”であろうと、そうでなかろうと、どんな人であれ、自信を持てることの1つや2つは過去にあるだろう。たとえそこに失敗のヒストリーがあったとしても、それも自分だと、自信を持って受け入れる。
 他人ではなく、自分で自分を評価する。たとえ今の自分に自信が持てなくても、いいじゃないか。だって、頑張ってきたし、ここまでの道のりでは苦しいこと、踏ん張って自分の力で乗り越えてきたはずだ。そんな自分を褒めてあげればいいのである。
 これは過去にしがみつこととは明らかに異なる。自分を、自分の生きてきた道筋を、自分で認め、受け入れ、自己を肯定する。他人や世間の市場価値に振り回されるのではなく、自分で自分を評価して、好きになればいい。
 そして、もしできることなら、息を潜めて群衆の中に消えるのではなく、最後くらいはやりたいようにやってみてほしい。
 「いや、君はまだ40代だから、50代の気持ちが分からないんだよ」
 こう言われてしまうかもしれない。でも、息を潜めていたって何も変わらない。いい加減、泳がされるのをやめて、自分で、自分のために、泳いでみればいい。
 体力は衰えても知力のピークは60代。あなたならできます。大丈夫です! 私から背中を押されても頼りないかもしれないけれど、大丈夫です。きっとでますから!