河野裕子『森のように獣のやうに』より
逆立ちしておまへがおれを眺めてた たつた一度きりのあの夏のこと
振り向けば喪ひしものばかりなり 茜おもたく空みたしゆく 茜(あかね)
虚しさは虚しさのみに戻りゆき砂時計無心に時を移しゐつ
吾が為に薔薇盗人せし君を少年のごとしと見上げてゐたり
あはれ常に鏡の裡よりのぞきゐる暗く澄みたるひとつの顔あり
君の持つ得体の知れぬかなしきものパンを食ぶる時君は稚し
透明を重ねゆくごとき愛にして汝は愛さるることしか知らぬ
癒えたならマルテの手記も詠みたしと冷たきベッド撫でつつ思ふ
一輪の紅き冬薔薇くれし少年もかなしみもとほくなりたり
炎ゆる髪なびかせ万緑に駈けゆきし青春まぎれなくま裸なりき
寝ぐせつきしあなたの髪を風が吹くいちめんにあかるい街をゆくとき
デボン紀の裸子植物のせしごとき浅き呼吸を恋ひつつ睡る
夕闇の桜花の記憶と重なりてはじめて聴きし日の君が血のおと
逆光の耳ばかりふたつ燃えてゐる寡黙のひとりをひそかに憎む
横たはる獣のごとき地の熱に耳あててゐたり陽がおちるまで
真昼間のまばゆき闇の彼方より天打ち返し郭公鳴ける
ふるさとの雨後の丘に光りつつ虹まとひをりたる椎よ
ブラウスの中まで明るき初夏の日にけぶれるごときわが乳房あり
坂こえて来たる夕雲ふかぶかと野の花いろの光ふくみて
予感めくかなしみに似てつばめよつばめ紫紺の羽を濡らして飛ぶぞ
振りむけばなくなりさうな追憶の ゆふやみに咲くいちめんの菜の花
耳熱く睡りゐし夜も病みてゐしわれの頭蓋よ草そよぎつつ
森のやうに獣のやうにわれは生く群青の空耳研ぐばかり
いまだ暗き夏の真昼を耳閉ざし魚のごとくに漂ひゐたり
忘却のふちに輝き今宵見ゆ金色の縄澄み揺れゐしブランコ 金色(きん)
抱かれてなほやりどなきかなしみは汝が眸の中を樹が昏れてゆく