羅生門と物語構成力

映画羅生門が有名であるが

同じ一つの出来事に関して
人によって別々の細部を構成していることは少なくない
裁判所などではそれが日常的であるし
そのなかで精神鑑定を行ったとしても
それも客観的な一つの事実とはいえず
見方が分かれることがある
そのような見方の違いは立場が違うのだから少しは違うだろうという程度のものから
立場の違いではなくて病気のせいだという違いまで
広く分布していると思う
病気のせいによる違いまでも立場の違いと言われるのでは理不尽であるし
何かについて集団妄想のような動きをしている人達もいる
物語を構成する力が過剰なのか
あるいはその素材となる事実の観察が足りないのか
両方なのか
いずれにしてもその人としては生きにくさを抱えているはずで
何とかしなくてはならないと思わなのだろうか
それも不思議であるが
現実には
自分は妄想性人格障害
父親はアスペルガー
母親は病気という程でもないが影響されやすい人格
というように揃っていれば
多分ももう何もしたくなくなるだろう
そんな例は世間には珍しくない
何かが過剰で何かが欠如していて
それだと当然生きにくいのであるが
それを外部のバカのせいにするのである
あるいは相手のうそつきのせいにするのである
世の中の診断のつく精神病ならばなんとかできる
診断のつかない程度にマイルドで
病気とも異常とも性格とも決めにくく
治療にも乗らず
自分も立ちなおりのきっかけをなくし
そのようにしてずいぶん大量の人が暮らしている