考えてみれば私は誰とも会わずに生きているじゃないか
生きていると言えるのだろうか
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社会的に存在するとか精神的に存在することは
他人を決定的に要請しているのではないかと思う
他人の精神の網の目の中に形成されるものが自分だと考えてもいいくらいで
そのくらい頼りないものである自分の精神が
今度は他人の精神を存在させているのだと思う
なんというもろさだろう
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子どもの成長を見ても分かるが人間の精神は結局は言葉によって作られるし文化によって作られる
人間はそれを初期の段階で選択する事が出来ない
多分、いま生まれてくる赤ん坊が自分の人生を良く考えてみれば、
有利な選択として、英語か中国語で育てられる事を望むのではないだろうか
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でもそうはいいながらこんな事を考えているのも日本語なわけだ
日本語の伝統がなくなってしまったら寂しい事だと考える