なぜ学問は退廃するか

以下、引用「なぜ学問は退廃するか」

■■書店で出会う「哲学」のつまらなさ
 現代この場所で私たちが直面している問題を、根本にかえって、深く考えるのが、哲学である。ところが、大学や書店で出会う「哲学」は、決してそのようなものではない。現代日本では、哲学は、非常につまらないものへと縮減しているのである。 
 哲学者に向かって、あなたの哲学は何ですかと決して質問してはならない、というジョークがあるが、この話が意味するものをここでもう一度考え直してみよう。 

 哲学的問題に自分の頭と自分のことばで取り組み、「哲学」する人、これが本来の哲学者である。哲学者は、自分の抱えている問題あるいは現実に直面し対決する。
 これに対して、過去の作品としての「哲学」あるいは哲学(学)者について研究する学者のことを、哲学学者と呼びたい。哲学学者は、文献に直面し対決する。

■■「-における」症候群   問題領域の限定
 アカデミズムの頽落は二段階を追って進む。
 第一段階は、「・・」学と「・・」学学の分離である。アカデミズムは、自らの仕事を「・・」学学だけに限定する。
 第二段階は、思想史研究から特定個人の文献研究への縮減である。
 要するに、アカデミズムは、スケールの小さい方へ、研究が楽な方へと自らを誘導してゆく。 

 このようにして、アカデミズムはいまや、特定個人の文献研究にしか興味を示さなくなった。それどころか、この傾向はさらに徹底して若手研究者に受け継がれ、彼らはもはや特定個人の文献の特定の箇所にしか興味を示さない。
 たとえば、学会の学会誌の投稿論文の目次を見る。ここにみられるのは「誰々における何々問題について」の洪水である。これを、「-における」症候群と呼びたい。 

 考えてみれば、大学院期間とは、いかにして重箱の隅をつつくような論文を生産するかという技術を学び、またそのような論文を発表することがとりもなおさず「学」である、と信じ込まされる期間である。
 研究室では「-における」論文の生産にはげみ、自宅に帰ってはじめて、自分が本当にやりたい思索に没頭するという「二重生活」を送っているものもいる。 

■■「手がかりにして」症候群   特定思想への埋没
 だが、現実には、アカデミズムは特定個人の文献研究へと縮減する。考えてみれば、それにはそれなりの理由があるのだ。

 ひとつには、特定個人の思想におぼれることの、麻薬のような快感がある。テクストを読む快感とでも言おうか。つまり、自分の頭では考えず、カントやヘーゲルに考えてもらって、自分でそのように考えたかのような錯覚を持つ快感。たとえば、ヘーゲルのようにものを考える快感。道元のようにものを考える快感。

 そしてそれは、その快感が哲学であり倫理学であり学問であるという錯覚へと結び付く。そしてついには、その快感が「安心」へと変わるという事態に至る。つまり、ヘーゲルを読み、ヘーゲルのように考えることで安心する、という事態に。
 この境地に至った人は、「ヘーゲルを読んでいればいい」とか、「親鸞でいい」という言い方をする。このことを専門用語では「ヘーゲルあるいは親鸞に即する」と言う。 

 これが学問であろうか。しかし現実には、論文を書くときにまでそれが波及している。たとえば、「カントとともに次の問題を考えてみよう…」とか、「ヘーゲルを手がかりにして次の問題を考えてみよう…」と述べて、全編、カントやヘーゲルからの引用を切り貼りする。
 要するに自分の頭で問題を考えることを放棄し、カントやヘーゲルに考えてもらっている。うがったみかたをすれば、彼らは始めから、問題そのものについては責任回避ができるような形式で、論文を書いているのである。これを「手がかりにして」症候群と呼ぶことにする。
 
■■「次の機会に」症候群    根本問題の回避
 では、彼らに、「カントがその問題についてどう考えているかはよく分かった。ならば、あなた自身はその問題についてどう考えているのですか?」と問うてみよう。
 しかし私たちは彼らの論文の末尾に、「我々は以上のような根本問題に直面した。それについてはまた次の機会に論じることとし、ここで筆を置きたいと思う」という文字列を発見するに終わるのみである。次の機会はいつ訪れるのであろうか。
 ひょっとしてこれは、自分の頭で問題そのものに取り組むことを、永遠に先のばしするという宣言文ではないのだろうか。そして、いわゆる学者たちは、これを暗黙のうちに承認しているのではないだろうか。これを私たちは「次の機会に」症候群と呼びたい。 

 頽落したアカデミズムは、これら三つの症候群を推進する側にまわっていて、私たちにそれを暗黙のうちに強要する。
 たとえば、三つの症候群にのっとった論文ほど学会誌に載りやすい。
 そして、敏感な若手研究者たちは、アカデミズムが要求することを察知し、求められるとおりに振舞おうとする。
 その結果、学会誌は、三つの症候群の見本市と化す。 

■■「体制化」された学問
 科学論においては、学問は「学会」「レフェリーつき学会誌」「大学のポスト」「教科書」などが有機的に組織化されることをもってその学問は制度化されたと考える。
 つまり、何がその学問であって何がその学問ではないかについての評価基準が学会によって明示的暗示的に作成され、その基準によって学問的業績とそうでないものが振り分けられ、その業績を積み上げたものが専門家・研究者として認定され、大学のポストに就き、そして学生を再生産していく。
 これが学問の制度化のひとつの意味である。 

 制度化された学問は、きわめて自己目的的に運動する。
 ある論文が哲学の論文として評価されるためには、「文献学・解釈学」というスタイルをとったほうが有利なのであるから、応募者はそういうスタイルで論文をまとめようとする。
 その結果として、応募されてくる論文のスタイルはそのようなものばかりとなり、掲載されるものもそうなる。すると、それが既成事実を作り上げて、あとに続く学生たちはさらに強固にそのスタイルを学習することになるのである。 
 
 このパラダイムを骨の髄まで染み込ませた研究者が、時
代の危機に真に対応する哲学の営みを開始できるはずはないのである。
 彼らにできるのはせいぜい過去の哲学者の思想を抽出してきて現代の状況にただあてはめてみるだけのことだ。
 そんなことで現代の問題の構造が解明できるほど、現代社会の抱える病理は浅くない。

 現代日本において、哲学は文献学・解釈学を主軸として制度化された。その功罪は様々あるだろうが、時代の危機に対応するという視点からすれば、デメリットのほうが格段に大きいと言わざるを得ないだろう。

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文献学者になっているというのは実際にそうで、
聖書の研究と信仰が別のものであったのと同じだ
フロイト学者とかラカン学者がたくさんいて治療がうまいかどうかとは関係がなさそうだ

 メルロポンティについての解説とか議論を求めて仏文科のゼミに参加したところ
 原理的な哲学的な議論はなく
 この言葉はメルロポンティはいつ初めて使ったか、その後の変遷はどうであったか、と質問が出て、
 見事にそれに答えられるのである
 それは正解のあるクイズなのだ

 そのような手続きを一年繰り返しても病気の治療とどう関わるのか、まったく見通しがなかったので
 そのゼミはやめにした