採録
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市場經濟が人間にもたらす恩恵は大きいにもかかはらず、一般の人々の間には不信や反感が根強い。市場經濟はなぜ嫌はれるのか。
リバタリアンの經濟學者ウォルター・ブロックは、社會生物學の智識をもとに、市場經濟が人々に嫌はれる理由を次のやうに推測してゐる。*1 *2
人類は地球上に誕生して以來、何百萬年にもわたり、二十五人から五十人程度の少人數のグループで生活してゐた。そのやうな小規模な社會では、背中を掻いてくれたらお返しに掻いてやる、飢ゑや病ひの時に食べ物をくれたら同樣にお返しするといつた、「目に見える」協力行爲が尊ばれる。そのやうに行動しない者は生き殘れず、次世代に遺傳子を殘すことができなかつた。家族といふ制度はこのやうな昔ながらの協力關係を受け繼いでゐるから、現在でも非常に強い絆に結ばれてゐる。
一方、地球上の六十億人もの人類が構成する經濟は、このやうな「目に見える」協力ではやつていけない。市場を通じた「目に見えない」協力關係を結ばなければならない。しかし長い歴史にわたる生活を通じて遺傳子に刷り込まれた性向はさう簡單に變はらない。われわれ人間は、お互ひが家族のやうに「目に見える」協力をし合ふことを好む。見知らぬ者と「目に見えない」協力を行ふことに對しては、本能的に不快感を抱いてしまふのだ。
市場を通じた協力への不信感がどれほど強いか、それを物語る逸話がある。ハリケーン「カトリーナ」が米國ニューオーリンズを襲つた後のこと、飮料水を求めて竝んでゐた人々に、州外からやつて來た者が、平時よりべらぼうに高い値段で水を賣らうとした。さて、人々はどうしたか。内心ではこのよそ者と取引したくてたまらなかつたにもかかはらず、水の販賣をやめさせようと警察を呼び、警官らがその通りにしたところ、拍手喝采したのだ。
だが理性的に考へれば、必要な品物の値段が高くなるのを妨げても、誰も得をしない。被災時に値段がいつも通りなら、皆が爭つて買ひだめに走り、列の先頭に竝んだ者が棚にある物をすべて買ひ占めてしまふかもしれない。値段が高くなれば、慈悲の精神を發揮しなくても、誰もが自然と他人の分を殘すやうになる。また、値段が高くなれば、その品物を賣つて儲けようとする企業が増え、品不足の解消が促される。これらは市場を通じた見事な協力なのだが、すでに述べたやうに、人々は家族的な助け合ひと異質なかうした協力關係を本能的に不快に感じてしまふのだ。
以上がブロックによる解説だが、人々が市場經濟に對して抱く反感がここまで根深いものだとすると、それを克服するのはほとんど不可能にすら思へてくる。だが別の見方をすると、そこまで悲觀する必要はないかもしれない。
サイエンスライターのマット・リドレーは、著書『徳の起源』(翔泳社、2000年)で次のやうに述べてゐる。たしかに人間は集團主義的動物で、自分の屬する集團内で密接に協力し合ふ半面、外部の集團に對しては好戰的だ。人間は「同じ集團のメンバーと運命をともにすることによつて、よそ者嫌ひと文化的對応順応の混ざりあつたものを心の中に育てていく」*3。
だが集團に分かれた人間はよそ者と戰ふばかりでない。それぞれが專門化することによつて、自分の集團に乏しいもの、めつたに手に入らないものを互ひに交換するやうにもなる。他の動物には見られない行動だ。これを交易と呼ぶ。
近代英國の經濟學者デヴィッド・リカードは「比較優位論」によつて、どんな國でも貿易によつて利益を得られることを明らかにしたが、そのやうな理論が明示される遙か以前から、人間は集團間の分業と交易によつて大きな利益を得てきたのだ、とリドレーは強調している。
日本のウェブ掲示板などには外國人に對する差別的言辭があふれてゐる。とりわけオリンピックのやうな、遺傳子に刷り込まれた「よそ者嫌ひ」の感情をことさらに煽り立てる國家的行事が催されると、差別感情はさらに激しさを増す。それはわれわれ日本人に限らない。
だが一方で、われわれは支那製のカジュアル衣料に身を包み、韓國製液晶を裝着したスマートフォンを樂しんでゐる。賣つた側も滿足を得てゐる。文化の異なる集團同士が近接して暮らすと摩擦が生じがちだが、グローバルな市場を通じれば、遠い國に住む顏も知らない相手とも助け合ふことができる。
市場を通じた助け合ひはカネを媒介とするから打算づくで眞の助け合ひではないと言ふ人がゐるかもしれない。だがカネのからまない家族や友人同士の助け合ひも、意識するしないにかかはらず「いま背中を掻いてやつたら、いつか掻いてくれる」といふ打算に基づいて行はれてゐるのだ。そしてそれは恥づべきことではない。
人間が集團主義的動物である以上、よそ者を本能的に憎むといふ性向から今後も逃れられないかもしれない。しかし人間が市場を通じて他集團と助け合つてもきたといふ事實は、未來に光明を投げかける。