iPadの登場と自我

だって、すべての本がこの中(=iPad)に入っているというんだったら、本棚はいらないわけだよね。
カフカもトルストイもあって、日本で言うと芥川龍之介も、太宰治も全部入っている。シャーロック・ホームズもあれば、『おやゆび姫』もある。本棚の1個ぐらい、軽くあるでしょう。それらが全部、すんなり入っているんだからね。夏目漱石も、宮沢賢治も、森鴎外も、みんな入っている。鴎外の『ヰタ・セクスアリス』だって。
難しい本を読んだ、ということが自分自身であり、だとしたら本棚の本も絶対に捨てられないんだよ。あれは自我なんでしょうね。一種、トロフィーみたいなものでね。
iPadの登場というのは自我の変化に関与していくということになるのでしょうか。
関与はするでしょうね。