再現可能な科学の世界

障害児といえばしばらく前に蓮舫・猪口の件があって

その話の経緯と結末についてはよく知らないが
あなたは障害児について知らない、私は知っているという言い方はよく聞くものだ
障害児であることと障害児の親であることとはどういう事なのかを語ることは原理的な困難がある
主観的な体験については共有できない可能性があるのは当然のことで
たとえば私の頭痛は世界最大だと言いはったとしても誰も否定もできない
たぶん放置されるだろうが
障害児であることはその上に特有の不利があって
自分の苦しさを蓮舫さんのように雄弁に画面で述べることができないのだ
そこが困難となって障害児の親もなかなか体験を伝えきれないと思う
障害児の親も大変だけど我々も大変なのだとの声が上がるはずだ
それも分かる
秋田県に生まれて育った55歳男性、妻子からは絶縁され
自営の仕事は倒産し借金が残り仕事もなく糖尿病と坐骨神経痛と排尿障害を抱え
親戚も貧乏で何かいうけれどアルコール症も混ざった東北弁が通じない
そんな人も大変で自殺率が高い
ーー
あなたは知らない、私は知っているという場合
自分はそのことを知っていることを客観的に証明するのは難しい
また他人がそのことについて知らないことを証明するのはなおさら難しい
「あなたは知らない、私は知っている」と思い込んでいるだけの場合が多い
面倒なので誰もいちいち他人を訂正しない
ーー
障害児の診断治療療育については
医学と教育との相互乗り入れがある
そのことも混乱を大きくしている
うっかりするとホメオパシーとレメディの世界になってしまう
もっとも自己反省のない人が
もっとも一貫していることがある
最も愚かな人間が
最も自信満々である
非難されればされるだけ確信を深める
迫害を逆手に取る宗教と同じ
ーー
条件を揃えれば誰でも再現可能であるような科学の世界がやはり私は好きだ
反証可能性の理論は
謙虚さの理論とも思える
謙虚さのない人はたいてい記憶にないと言う
もし言ったとすれば謝るなどと
何も謝らず傲慢に語る
ーー
言葉によって構成される他人の寄り集まりという社会を拒絶するのも分かる
そのようなものは無意味だと断定するのも分かる
しかし否定したあとで何に向かって生きるのかを考えると
もう一段の思考が必要である
漱石先生も言うように結局はこの世界をこの隣人とともに生きるしかない