Reality Testing

精神の障害の大きなくくりではないのだが、
各障害で顔を出したり出さなかったりするのが
Reality Testingである。

代表はシゾイド、シゾタイパル、ナルシスティック、ボーダーラインなどで、
シゾフレニーでもまたデプレッションやムード・ディスオーダーでも問題になる。

Reality Testingの中でも、「他人の気持ちが分からない」というのは、
この世界を生きていく中で決定的に不利な条件になる。

そして「他人の気持ちが分からない」「共感性がない」の代表が、ナルシスティックな人である。

言葉が微妙で難しいのだけれど、シゾフレニーではもちろん、共感性が少なく、
バイポーラータイプでは共感性が過剰な場合があり、昔から対比されて論じられてきた。
この意味での共感性はナルシスティックな人のばあいの共感性欠如とやや違っている。
ナルシスティックな人は他人の気持ちが分からなくても焦らないし、
分からなくても当然で、分かりたいとも思わない。その必要性を感じない。

たとえば、昔の話で、家の主人は使用人をただ使えばいいだけで、気持ちなどを考えなくていいのだった。つべこべ言わずにハイと言ってやりなさいと考えるだけで、それ以上は考えない。今の時代にそんな人がいるのかと思うと、たくさんいるし、増えているというのだから、注意が必要なのだ。
人間同士としてすれ違ったとこちらは思っていても、あちらは犬と同じ程度にしかや思っていなくて、用があればなでるけれど、用がなければ何ヶ月も手をかけないでも「こっちの勝手」と思っているかもしれない。

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そんなわけでまずReality Testingである。
Reality Testingは翻訳すると現実検討とかいっているが、
現実を現実のままに把握するということだ。
少し考えると、現実を曲げて受け取っていたらすごく損をするだろうと思うのだが、
実際、現実を曲げて受け取る癖があるせいで、すごく損をしている人たちはたくさんいる。

客観的に物事を受け止めることは実は難しい。
現実を現実のままに把握しない人はかなり多くいるものだ。

物質世界について。
特に他人の心について。
最後には自分の心について。

上の方が客観的に証明しやすい。下は証明しにくい。
嘘をついているのか、本気で思っているのか、そのあたりの区別も付けにくくなる。

物質世界についてならば客観的な観測の世界なのだから
間違いようもないだろうと思うかもしれないが、
ここでさえとても不安定なものなのである。

ここにあるのがリンゴかオレンジかというなら訂正も照合も容易である。

見間違いとか錯覚はしばしばあるものだけれど、
現実とは異なることをずっと信じ込んでいることもある。
リンゴを勝手にオレンジだと思っているなら害もないことが多いのだけれど、
学校でテストなどをすると間違っていることはとりあえず分かる。
訂正しないのはその人の限界である。

どういう例がいいのか困るがたとえを挙げると、
2年前のおじいちゃんの法事の時に千葉のおじさんが来たという話になったとする。
ここで、いやそれはおばちゃん一人だったとか、二人だったとか、
おじちゃんは手ぶらできたとか、羊羹を持ってきたとか、
認識がずれている。

これは記憶違いの方に含まれるが、現在目の前で見たことでも食い違うことはある。

別の例はたとえば痴漢の裁判の話で、
したとされる側は覚えがないといい、
されたとする側は確かにされたといい、
しかし客観的に状況を調べていくとおかしな点がいくつもあり、
その点を問いただしていくと、されたと相手を訴えた側がどうも認識がおかしいまたは記憶がおかしい場合もあり、
弁護側が、理屈で問いただしても、答えられず、ただ感情的に反応するばかりだったりもする。というわけで、映画になった。

未来のことについて、テレビで雨だといっていたとかいっていなかったとか言うのは、
本質的には過去のことに属する。

今現在目の前で回転している人について、右回りだとか、左回りだとか、
目の錯覚を誘うようなものもある。
当然それについては意見が合わない。

このように客観的な場面についてさえも意見が一致しないのだから、
人間について、さらにその気持ちについては、意見が分かれる。
しかし考えてほしいのだが、このように意見が分かれるから、商売の予測も異なるし、
儲ける人と儲けない人の区別ができる。
株も買う側と売る側で別れる。
数学ができる人とできない人との区別ができる。

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話を進めて、他人の心についてはどうだろう。
これは目に見えないものだから、いろいろな証拠から推定するしかない。
あるいは、こんな時なら自分はどう思うかということを基準にして、他人の心を推定したりしている。
そんなわけで、他人の心の推定については、かなり意見が分かれることになる。
しかしこれは大変重要なことで、
相手がおなかが空いているのかセックスしたいのか風呂に入りたいのかコンピュータをいじりたいのか
推定を間違うとかなりちぐはぐになる。

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もっと訳が分からないのは自分の心である。
自分の心だから自分が分かるだろうと思うのは大きな間違いで、
心のからくりを自分で説明できる人は少ないと思う。
自分で合理的に決めたと思っていても、全然合理的ではない。

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こんな風に話を広げてきたのは、
シゾフレニーは相手の気持ちが分からないだけではなく、現実把握全般について、不安定になっているものだといいたいわけである。
極端な場合には妄想を発展させているわけで、たとえば、今日家に訪ねてきた人は私を見張っているスパイダとか考えるわけだ。

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一方ナルシスティックな人の場合には、外界の現実把握がすごくずれているということはまずない。
すごくずれていれば、まずシゾフレニーを疑うのだから。
外界把握はできて、情報処理もできる、しかし、他人の気持ちにまったく無関心で、自分の気持ちや自分の都合ばかりを考えている、そんな人。
これは程度の問題だから、誰でもその傾向がないかといえば、あるということになる。
こんな傾向の強い人でも、すごく才能があったり、財産があったり、要するに通してしまえる立場の人ならば、世間はむしろ、さすがねえ、あれで通るのだから、たいしたものだわ、などと言ってくれる。
その場合には、他人の気持ちに敏感な人たちが取り巻きになって、支えているのが普通であるが、いずれにしても、境遇に恵まれれば、許される。
ということは、価値判断を離れて、病気というべきかどうかはためらわれる。だから、控えめに、パーソナリティ障害と名付けて、環境が許せば問題にはならないくらいのもの、という感じで使う。環境が許さなければ、ケースネス(事例性)という言葉を使い、病気という認定は医学的に保留するとしても、生きていくのにかなり障害になりますとは言えることになる。

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精神病レベルの病態があって、それは言い換えると、
現実検討が失われていて、使用する防衛規制が、現実を歪める種類のものだということになる。
病気の種類としては、シゾフレニーとかバイポーラーなどがそれに当たる。

それよりももう少し正常水準に近いものが、
ボーダーラインやナルシスティックなどのパーソナリティの問題の人たちである。
現実を歪めたり、相手の気持ちを歪めたり、無視したり、自分の気持ちを歪めたり、いろいろとある。

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ナルシスティックな人は
誇大性、賞賛されたいという欲求、共感の欠如などの特徴があるわけですが、
少なくとも、他人の気持ちが分かるようであれば、
誇大性も賞賛欲求も、「相手もそう思っているかもしれない」「相手は不快かもしれない」と
思えるはずで、それだけでずいぶんと違うはずだ。
立場を替えて考えてみなさいと小学生の頃に教えられるが、
実際、この人たちは、立場を変えて考えてみることができないのである。
だって自分はすでにすごいのだから、立場は変えられないはずだと信じている。

誇大性を持っていて、たとえば自分は天才だと信じていたとしても、
相手も自分を天才だと信じているかもしれないから、
自分が尊重されたいと同じように尊重しようと思えば、
それはそれで立派な人だと思う。

賞賛欲求についても、相手のことを考えて、賞賛すべきは賞賛すれば、
ずいぶんといい人になるはずだ。

誇大性+共感性欠如だからなかなか困ったことになる。

共感性欠如でも、誇大性がない人は、どうかということになる。
共感性がない人はたいていが物事を被害的に受け取る。
予想通りの反応でない場合、人は意外に感じるものだし、たいてい警戒するし、被害的になる。
このラインにはシゾフレニーの人がいる。

しかしシゾフレニーの人に誇大性がないかといえばそうでもなくて、
血統妄想の人などはずいぶんと誇大的なことを言うし、
スパイに付けられているとして、相手はCIAだし、
そうすると自分は国家の重要人物だと言うことになって、ずいぶんと誇大的な話になってしまう。

しかしシゾフレニーの人の誇大性とナルシスティックな人の誇大性は違うものだし、
誇大妄想が典型の躁状態を含むバイポーラーのひとの誇大性はまた違う。
誇大性という日常語に偏った使い方でくくるからこのようになるのだろう。
シゾフレニーとナルシスティックな人の誇大性は共感性に乏しい。
バイポーラーの人の誇大性は共感性がある。ありすぎるくらいと言われる。
しかしいずれもが、世界モデルとして巨大な自己を持っていると言うことは確かなようで、
現実の自己は遙かに小さいはず。その点では共通している。

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共感性があるならば対他配慮ができるはずで、
メランコリータイプのうつはそうだった。
陰性気分の持続+強迫性+精力性が基本で、これに対他配慮(協調性)が加わる。
現代型のうつ病では
陰性気分の持続+強迫性+精力性が基本で同じだが、対他配慮(協調性)は欠如している。
さらに精力性も強迫性も欠如している場合には、
陰性気分の持続だけが特徴となり、
これがそのままディスチミア親和型うつ病の特徴となる。

これは病前性格がナルシスティックまたはシゾイドに近く、対他配慮(協調性)を発達させていないからだと考えている。

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対他配慮・協調性・共感性が欠如しているのはなぜだろう。
そこの議論については、子育ての方面の人の意見が強い。子育てをテレビ・ビデオ・ゲームに依存している人があり、まず母親が赤ん坊の反応に情緒反応で返してあげることをしないから、そして、それをしないでも済んでしまうから、必要な時期(臨界期)に学習しないで通り過ぎてしまい、以後、学習の機会は永遠に失われるとする。説得力がありそうでなさそうで微妙なところである。実証研究は、もちろん、ない。たぶん当分、できない。
しかし、メディア漬けが問題視されていることは確かである。

東京都内の中学校でも、携帯は持ち込み禁止、持って行ったらペナルティ、ゲームをしている暇があったら読書とスポーツをして頭と人格と体力を鍛えなさいと指導している学校があり、大いに納得できる。中学と高校は勉強とスポーツだけで時間が足りないはずなのだ。

若者よ、目標を持ち、ぎりぎりまで努力してみないか。
ノーベル賞でも大リーガーでも目標を掲げて努力してみようではないか。
だらだらしている時間はないはずだ。

うまくいかないかもしれないが少なくとも自分の才能については自分で評価できるだろう。
それだけでも悔いはないはずだ。

数学が役に立たないというなら
ゲームはもっと役に立たない。