母親が自分の自己愛の延長として、
共感に乏しく、子どもをかわいがったらどうなるか。
子どもの共感性は育たない。
理解もされない。
そんな中で母親の要求の通りにすれば褒められる。
母親の期待を満たしてやれば喜ばれる。
それは共感でも理解でもなく、
自動販売機のボタンを押しているようなものだ。
母親も自動販売機のボタンを押すように
ご褒美としてたくさんものを買ってくれる。
そのような関係の母子は少なくない。
無理解と無共感を苦しいとは考えず、
人間的な触れ合いをむしろ回避して、
自己愛の満足を求め続ける。
完全な孤独の中でその作業を続けているならば誰にも迷惑もかからないのだが、
ある程度は他人を巻き込んでしまう。
相手が自動販売機のように反応しないと怒る。
相手は怒られるのは嫌なのでとりあえずは要求を満たす。
しかしその対人関係パターンが長続きするわけでもない。
その時点で相手が共感や理解のサインを出したとしても、
この人は無理解で無共感だから反応しない。
反応しないとくたびれてしまい、どうにもならなくなる。
そこでその相手とは行き止まりになる。
相手は自己愛の延長物として生きるか、そうでなければ離れていくかを選択することになる。
しばしば才能があったり経済力や財産があったりするので、
そのためだけにでも離れないでいる人もある。
自動販売機のボタンを押すような行為を共感や理解と誤解しながら生きていく。
道具的触れ合いである。