リバタリアンの意見採録
医療の部分などを読むとやはりいろいろと賛成できない部分もある
8、知的所有権を再考する
現在、知的所有権としては、音楽や映像、絵画や書籍などの著作権や、電子回路のデザインや商品の生産方法などについての特許権が良く知られている。しかしこれらほど重要ではないものの、その他にも、個人の肖像権や会社の商標権など、多くの無体財産が法律で保護されている。
現在大きな問題となっているのは、思想や芸術表現を保護する著作権と、遺伝子などについての特殊な知識についての特許権である。議論をわかりやすいものにするために、以下に話を分けて考えよう。
音楽や映像、書籍
音楽や書籍についての著作権は、基本的に発表から50年、映画などの映像については70年の間著作権が有効であるとされている。その間は、著作権者の許諾がなくては、私的利用目的をこえた複製することはできない。
しかし、現在のインターネットの普及によって、ファイル交換ソフトによるデジタル化された音楽や映像の共有が可能となった。サーバーを介さない個人同士がインターネットを介したネットワークをつくり、お互いがコンピュータ上にもっている著作物を共有しあえる時代になった。
それ以前の著作権の侵害には、物理的な海賊版CDやDVDをつくる必要があったため、摘発を受けずに大量生産をおこなって売りさばくということは、ほとんど不可能であった。このため、海賊版の摘発は比較的に容易だったのである。
しかし、ファイル交換ソフトであるWinnyやShareなどを使えば、私が合法的に持っている映像をデジタル信号としてコンピュータ上に載せるだけで、簡単に他人とデータ共有することができてしまう。ソフトをインストールして活用するだけで、他人もまた同じ映像情報がダウンロードできるので、著作権の侵害ははるかに容易かつ高速で安価なものになったのだ。
コピーが容易なのであれば、デジタル情報は管理することがきわめて難しくなる。人々がネット上で無料で著作物を楽しめるのであれば、既存のパッケージの売り上げにとっては大きなマイナスとなる。テレビ番組の著作権を持つテレビ局や、映画DVDの著作権をもつ映画会社、あるいは音楽著作権をもつレコード会社などの立場からは、対策を講じる必要が生じるだろう。
著作権保護の要請を受けて、2004年5月、京都府警は当時広く利用されていたファイル交換ソフトであるWinnyの作者で、当時は東京大学の助手であった金子勇を逮捕・拘束した。Winnyを使って著作権を侵害した二人を正犯として、その幇助の容疑で立件したのである。現在、金子容疑者は一審で有罪判決をうけて、控訴中である。
一般ユーザーの、ファイル交換の実態はどうなっているのだろうか。事実上、これは野放しである。ほとんどのテレビ番組、映画、音楽が、当然に無料で共有されている、あるいは「ネット上におちている」状態だといえるだろう。少なくとも私がネットで知りえる限り、中学生、高校生の間では有料でコンテンツを見るという習慣は全く存在していない。また、大人気のアメリカの動画投稿サイトYouTubeでも、著作権を無視した投稿が目立ち、たびたび日本のテレビ局が著作権の侵害だとして抗議している。
また、日本では音楽著作権を、事実上一括して管理している、JASRAC(ジャスラック)という団体があるが、この団体は著作権保護について、ひじょうに強硬な姿勢で臨んでいる。例えば2005年にも、練馬区でビートルズの曲を生演奏させていたスナックに対して、曲の著作権料を支払えという訴訟を起こしているのである。
現在でも、ファイ不交換ソフトによる著作物のダウンロードは著作権に違反するとされているが、現在進行中の政府の著作権についての審議会では、さらに他の利用者と共有するためのアップロードまでも違法とするように、著作権を強化する方向で話が進んでいる。いずれは著作権者の同意のない私的な鑑賞も違法化されるかもしれない。
誰が受益者なのか
さてここで、もっと根本的に著作権法制度の役割について考えてみよう。
著作権の保護から利益を受けているのは、もちろん著作権者でもあるが、同時にそれらの配給権利者ははるかに大きな利益を得るのが普通である。音楽ではレコード会社、映像では映画会社である。また書籍の場合は、出版社になる。
いったん名声が確立した芸術家は音楽であれ、映像であれ、小説であれ、ネット上に自己の作品が無料で見られるような状態を好まないだろう。独占的なレコード会社や映画配給会社、出版社を通じた作品頒布のほうが、作品から得られる儲けが大きいだろうからである。
同じように、レコード会社・映画会社・出版社は芸術家をプロモートし、その作品を頒布することで収益を上げている。彼らの立場からは、ネットでのファイル交換による作品流通が広がれば、少なくても営業部門は不必要になってしまうため、ファイル交換行為をますます違法なものにしようと努力するのである。
さて次に、確立した名声を持つ芸術家ではなく、これから作品をつくる芸術家の立場に立ってみよう。彼らにとっては、過去の他人の作品をすべて無料で見られれば、それにこしたことはないだろう。同じように、単なる愛好者、あるいは消費者にとっても、無料で作品が見られるということは効用を最大化するはずである。
なんといっても、デジタル著作物は完全にコピーすることができるのであり、コピーしても原本はなくならない。そうだとするなら、すでに存在する作品については、原理的にはコピーをできるだけ多く作って人びとが楽しむことは、すべての人にとって望ましいことのように思われる。
これは現在すでに、作られた作品が存在することを前提とした議論であり、今後作られるだろう作品について考えると、論理は複雑化する。作品が無料で複製されてしまうのでは、映画などの場合、その製作のために投下した資本が回収できなくなる。とすれば、映画のクオリティはかえって下がってしまい、映画の製作活動は縮小してしまうと危惧されるのである。
この議論に平行した形で、著作権団体や、さらに著作権を保持する会社組織は、現在よりも著作権の強化を主張するという構図になっている。例えば、映画の著作権は2004年に発表後50年間から70年間に強化されたが、これは1990年代のアメリカやEUの著作権強化の流れを受けたものである。
その反対に、一般ユーザーは著作権の強化を望まないことが普通である。例えば、著作権が切れた日本の著作を、インターネット上で広く一般に公開しているサイトに「青空文庫」がある。このサイトでは、著作権を著者の死後70年に延長することへの反対運動を行っている。
この辺の妥協点をどのように評価するかは、まさに個人の世界観・価値観の問題となる。しかし私は、少なくとも現行の死後50年という著作権は長すぎると考えている。
死後50年程度の保護がなければ、すべての音楽や映像が社会的な価値を正しく反映しなくなり、これらの生産活動は停滞してしまう、と主張する人もいる。しかし、これは本当だろうか。
現在は成功した小説家やミュージシャン、映画俳優、監督などは、年間数十億円の印税が入るのが、きわめて普通のことになっている。音楽、映画や著作物をはじめ、すべての芸術表現がきわめて世界的な商品となっているため、常識的ではない金額が成功者の手元に入ってくるのだ。
これが、果たして道徳的に「正当」なのかどうかという議論は別にして、著作権がなくなるとどうなるだろうか。おそらく、彼らの元に集まる膨大な富は激減するだろうが、だからといって、彼らが生きられないということもないだろう。
音楽の場合
たとえば、ミュージシャンをとり上げてみよう。将来的にはネット上で無料配信される音楽の中からも、大人気の音楽というのは出てくるはずである。音楽それ自体は売り物として対価を得ることは不可能でも、その音楽を深く愛する人は、そのミュージシャンのコンサートにいきたくなるだろう。あるいは、ミュージシャンに関連したノベリティグッズがほしくなる。
もともとミュージシャンのほとんどは、音楽を他人と共有したいという思いから出発しているので、無料であっても、より多くの人に音楽を聞いてもらえることには納得すると考えるのは自然である。そしてその音楽が広く知られることになれば、必ず付加的なサービスや商品を販売することができるのである。
このように、最初から著作権の存在しない制度であることを前提としても、音楽家になりたい人びとが減少するなどとは到底とは思われない。21世紀の社会は、ますます豊かになり、サービス産業は増えるはずなのである。音楽そのものは公共財として無料で配布しても、その作者は獲得した名声でペイ・テレビやコンサートへの出演などの特殊なサービスによっても、十分に生活できるだろう。
このような考えは、別段新しいものではない。例えば科学知識の発展は、基本的にはすべてが共有知識となって、その加速度的な進歩が実現してきたのである。中世から続く大学では、学者は講義をしたり、著作を著したりしてきた。現在はさらに一般の講演会をしたり、テレビに出演したりというような、特別なサービスを人びとに提供することもしている。当然、著名な学者であればあるほど、これらの特殊なサービスから得られる対価も上がることになる。
音楽がこの学術モデルに倣って発展することは十分に可能だろう。著名なミュージシャンの場合、コンサートという限定的なサービスでも十分な対価が得られることはすでに証明済みだからである。
これまでコンサートに行かなかったような3万5千人の団塊世代が、2006年の「つま恋」野外コンサートで吉田卓郎や南こうせつの歌声に聴き入る姿は、マスコミでも大きく報道された。『ぴあ総研 エンタテイメント白書2006』の推計によれば、日本のコンサート市場は、毎年大きくなっており、2005年に1429億円にもなっているのだ。
また、2007年3月には、アメリカの歌手マイケル・ジャクソンはまったく歌も踊りもない、サイン会のようなファンとの集いを日本で開催した。しかし、そのチケットは40万円で、観客は数百人が集まったということである。おそらくは、彼ほどでないミュージシャンでも十分に生活ができるだろう。
映像の場合
映像は、音楽よりもはるかに大規模な制作費をかけて作られている。著名なミュージシャンでも、そのCDの制作費が百億にも達することはないだろうが、ハリウッドの映画は、ほとんど恒常的にそういった規模の制作費が投入されている。
映画コンテンツの場合、まず映画館で上映され、ついでテレビでレンタルが解禁され、最後にテレビで放映されるという、一連の制作費回収のシステムが完成している。マルチ・ユースと呼ばれる、この小さな滝の連続するようなシステムで、できるだけ多くの人びとから資金を回収するわけである。
著作権がまったくなくなってしまえば、百億円を超えるような大きな資金は回収できなくなり、結果として現在のようなスペクタクルな映画は作れなくなってしまうという人もいる。実際、ほとんどの人がこの主張に納得しているのではないだろうか。
しかし、制作費の多くは人件費に流れているのが現状である。例えば、ハリウッドの映画制作費用の平均は約40億円程度だが、トム・クルーズ、アーノルド・シュワルツネッガー トム・ハンクス、ブラッド・ピットなどの俳優は30億円以上、またジュリア・ロバーツなどの女優もまた、25億程度の出演料を受け取っているのだ。
彼らの出演料が妥当なのかどうかは私には判断できない性質の事柄だが、それだけの収入がなくても俳優としてやっていけることは間違いない。同じように、ジョージ・ルーカスなどの有名な映画監督も100億円単位での年収があるが、それだけの年収がなくても映画を作り続けるのではないだろうか。
つまるところ、音楽も映画も産業として見るよりも、人びとの文化活動だと認識して、原則的にコピーなども自由にすればよいのである。それが極端に人びとの創作活動を抑止するというのであれば、現在の死後70年間の保護期間から、だんだんとそれを短くしてゆくべきだろう。
少なくても、70年の著作権というのはあまりに長期間の保護である。作者の死亡からさらに70年というような著作権保護にいたっては、相続税法の理念にさえも対立する有害無益な権益だ。実際にも、せいぜい30年程度で、さまざまな作品は十分に文化の一部として、我われに広く共有されるような存在になっているように感じるのは私一人ではないだろう。
現在の形での著作権保護を廃止、あるいは保護機関を短縮すれば、当然にそれらコンテンツ業界で働く人びとの収入は下がるだろう。それでも多くの人はより優れた音質や画質、さらにはノベリティグッズなどの形での対価を支払い続けるはずである。
また、ディズニーランドやユニバーサル・スタジオなどのような形で、訪問型の比較的小規模な遊園地が、各地にできても映画の費用を回収することができるはずである。世界中でディズニーランドがどんどん拡大して、ディズニーワールドやディズニーリゾートになり、「パイレーツ・オブ・カリビアン」の体験ができれば楽しいだろう。こういった体験型の施設は今後の豊かな世界では、ますます人気が高まってゆくものなのだ。
同じように、映画の世界をインタラクティブに楽しめるような、セカンド・ライフのような仮想世界を構築して、それによって、映画の制作費を回収するというモデルもあるかもしれない。あるいは、仮想世界に入って仮想通貨を支払った場合にだけ、映画が見られるような仕組みも作れるだろう。
こういったビジネススキームは、すべて映像を無料で配布し、それによって人びとが感じるだろう欲求をみたす、排他的なサービスを供給することから資金を回収するというものである。この場合、映画などは、そのサービスの購入へのCMとして考えるというものだといえるだろう。
現在でも、CMの多くは芸術性やエンターテインメント性があり、独自にも楽しめるものである。それをさらに一歩進めることは、それほど難しいことではないだろう。少なくとも、著作権がなくなれば文化が衰退するというのは、現在の権利保持者に都合のよい非現実的な脅しでしかない。
知的「所有権」という考えについて
たしかに、著作権を全面的に廃止して、自由にコピーを許すというのは行き過ぎだと感じるかもしれない。我われの感覚には、コピーによって原本が喪失するかどうかにかかわらず、自分が作り出したものは自分に一身的に専属しており、コントロールする正当性があるという道徳的な直感が、まぎれもなく存在しているからである。
こういった感覚をベースにスタンフォード大学の法学者ローレンス・レッシグは、クリエイティブ・コモンズとよばれる、新しい著作権の形を提示している。そこでは、著作権は、作者名を示すのみ、あるいは再利用までも許すが、再利用したものはさらに他人の再利用を許す必要がある、などといった、いくつかのより細分化された著作権を利用することが提案されている。
このような運動は、リナックスを典型例とするような知的なコラボレーションを念頭においたものである。しかし、コンピュータ・プログラムのコードとは違って、多くの芸術作品はほとんど再利用されることはないため、クリエイティブ・コモンズはあまり活用されていないのが現実である。
さて、現代のデジタル技術の発達によって、多くの芸術作品がほとんど劣化なしにコピーすることができるようになった。この場合、創作者本人の手元から作品がなくなってしまうわけではない。
もともと、所有権とは、他人とは同時に利用できない排他的な性質をもつ物体の保持・利用を、ある個人のみに許すことによって、ものの活用を制度化したものである。例えば、土地の所有権には利用権が含まれるが、それは二人の人間が、同じ土地を同時に異なった用途には利用することができないからである。
これに対して、知的「所有権」の場合には、複数の異なった人びとが同じものを利用することができてしまう。この点において、古典的な物権としての所有権とは異なったものなのである。つまり知的所有権の現実は、国家による法律的な特許なのだ。
人びとが同時的に自由に利用することも原理的にはまったく可能なのだが、作者の感情に配慮して、他人が利用できないように国家が定めているというのが、知的所有権の本質である。これが所有権と呼ばれるのは、あくまでも有体物の作者に当然に帰属する所有権からのアナロジーなのである。
さて、これまでの人類史においては、デジタル情報というものは決して大きな存在とはいえなかったはずである。だからこそ現代社会でも、こういった情報がどの程度保護されるべきなのかは、道徳的な直感と政策的な配慮が入り乱れて、錯綜した問題になるのである。
国が著作権を保護するべきか
知的所有権について私の考える最も単純な解決法は、国家の法律制度による介入をやめて、市場に任せるというものである。例えば、音楽にしても、映画にしても、人びとを一箇所に集めて、盗撮や録音ができないことを確実にして、鑑賞させるということも考えられる。
あるいは、音楽や映像データを送る際には、受信者とはっきりと契約をして、再利用を許さないこと、さらに契約に反した場合には、損害を賠償することをきっちりと契約するということも考えられる。
この場合、公法としての著作権法はなくなり、問題は私的な契約の問題になる。よって、前述のような、古典的な暴力犯罪を取り締まるべき警察が、契約違反者を取り締まりに来るというようなバカバカしい資源の無駄遣いはなくなるのである。
例えば、コカ・コーラの成分は特許にはなっていない。それでも、原液をアメリカで秘密裏に作り、それを世界に送ることによって、ビジネスは全世界的な規模で成立している。つまり、特許という国家的なシステムとそれに伴う強制は強者である権利者に都合のいいものであって、特許制度なしでも私的な契約だけで機能することは存外に多いのである。
さて、ここから得られる教訓としては、知的財産権については、その侵害に際しても損害賠償請求のみを認めるべきだということである。現在は、損害賠償だけではなく、「所有権」であるということから情報使用の差し止めまで認めているが、これは権利保護としては行き過ぎだということである。
もちろん、損害賠償だけしか認められないというのであれば、損害の発生や当事者への帰責性の有無、さらには損害額の算定までも権利者側が立証することになってしまう。これは確かに所有権者の負担を重くしすぎて、権利保護が十分ではないという批判があるのももっともだ。
しかし、差止請求まで認める現在の制度では、「特許ゴロ(Patent Troll)」としかいいようのない企業が特許権を主張することによって、多くの会社の営業が妨害されてしまっている。多くの企業にとっては、例えば、3ヶ月以上も操業が停止すれば、それだけで倒産の可能性も発生しまう。実際、アメリカではこういった特許訴訟専門会社の活動が顕著な社会問題となっているのである。
ほとんどが法律家からなるそういった会社は、まず他の会社の活動に関連していそうな特許を持っている会社から特許を買い取り、その後、他社が自分たちの会社もつ著作権や特許を侵害していると主張して、裁判を起こすのである。
差し止めを嫌う企業は、金銭での和解を選択することになる。そういった和解金を得ることによって、特許ゴロは存在しているのである。これはつまり、勝手に言いがかりをつけて金を巻き上げるという意味で、日本でいう暴力団に近いものなのである。
私の結論としては、特許法は全廃して、売り手と買い手の契約としてコピー禁止を約するべきだというものである。そして、特許権をはじめとする知的所有権全般に関して、差し止め訴訟は認めず、損害賠償のみを認めることにする。なお、これは現在でも、企業が包括的な技術提携をおこなう際に一般的に見られるやり方なのである。
実際に、日本経団連が2007年に政府の諮問会議に提出した意見書では、著作権処理の「手続コストが高いため、コンテンツの多くが死蔵されている。コンテンツを簡便な手続で再利用できるようにするなど、流通を促進させるための法制を整備すべき」であるとしている。
これに反論する形で、日本レコード協会や日本文芸家協会などの17団体で構成する「著作権問題を考える創作者団体協議会」は2007年5月16日に、デジタルコンテンツの流通に関する提言を行っている。そこでは、「利用の手続きがわずらわしいからといって、著作権者の権利を制限しては、文化芸術の発展にとってもゆゆしき事態」に至ると敬称を鳴らしているのである。
しかし私見を繰り返すなら、文化というものが、著作権がないと発展しないというのは、ありそうもない既得権益側の欺瞞的主張である。前述したように、学術的な発見はすべて名誉だけで成立している知的活動である。しかし、そこでは学者の知的な好奇心と、どれだけかの名誉欲がドライブとなって十分に生産的に機能している。
私のお気に入りの一例を挙げてみよう。アインシュタインによる相対性理論に基づいて、原子力発電産業は成り立っている。彼の理論は、核分裂がエネルギーを生み出すことが理論化したのだ。しかし、アインシュタインはその理論の生み出した名誉のみを受け取り、全人類はその経済的な利益を受けている。
同じことが、芸術的な作品についても考えられるはずである。芸術作品に対する人びとに与えられる社会的な名誉と、自発的な対価の支払いだけでも、今後ますます豊かになってゆく社会では、芸術は十分に発展してゆくだろう。発展しないという主張をする人は、あるいは芸術自体の発展よりも、自分がお金を稼ぐことを望んでいるのだろう。
9、医療制度
どの国でも医療は、国家が干渉をおこなうもっとも典型的な産業である。人の命がかかっているというわけだから、娯楽産業などよりもはるかに重要であり、国家が直接的に関与する必要があるという理屈である。
しかし、私には国家による医療への介入は不必要なだけでなく、ひじょうに効率の悪い状況を作り出していると感じられる。そして、医療の効率の悪さというのは、つまり死ななくてもいいはずの人が、診療を受けられないままに死んでいるということなのである。
いい例が、腹痛を訴えた妊婦が数時間以上も救急車上でたらいまわしにされて、結局は受け入れ先への搬送が遅れて死亡するというような、このところ頻発している事件である。医療行為の値段が決まっているのであれば、その値段では診療したくないという病院や医師は、診療を断るだろう。
現実には、以下に述べるような慢性的な医師の不足もあり、緊急性が相当に高くとも診療を受けられないような患者が出てきてしまう。少なくとも自由な価格付けを許せば、患者が死亡することはなかったはずなのである。
日本の医療の現状
日本の医療制度というのは、端的にいって、社会主義制度そのものである。医療サービスの供給面からすると、医師の数が決まっているために総量がほとんど決まっている。そしてサービスの値段も診療報酬制度によって、厚生労働省が決めているのである。つまり医療サービスの供給は、量も価格も決まっているという商品なのである。
需要面から見るとどうだろうか。社会保険制度の充実によって、私の加入している共済年金や厚生年金では、診療報酬の3割が自己負担となっている。つまり、診療の際に、患者としては費用の3割しか支払う必要はないのである。
このように供給の量が決まっており、さらにそれが消費者にとって比較的に安い値段で売られているような商品では、サービスを需要する人は数多く、需要が供給よりも多くなるのが普通である。この場合、自由市場であれば価格が上昇することによって需要量が減少し、供給量が多少なりとも上昇して、均衡するはずである。
しかし、日本の医療制度では、価格は公定されているので、上がることはない。このような場合は、財やサービスは誰が入手することになるのだろうか。
ロシアがソヴィエトであった時代、つまり社会主義で典型的に起こっていたのが、行列による財の割り当てであった。ソヴィエトでは、肉や野菜を買うために常に行列ができていた。それは財の量が足りないというよりは、むしろ社会政策的に価格を低く設定していたため、供給量よりも需要量のほうが多かったからである。
資本主義では財の量が需要量より少なければ行列が起きるが、通常は、価格が上昇することによって調整されるのが普通である。価格は即座に調整されることはないため、行列ができることもあるかもしれないが、時間がたつうちに価格が上昇してゆくことによって行列は解消されるのである。
ところで、このような日本の医療制度は、どのように評価されているのだろうか。WTOの評価によれば、日本の医療制度は「平均寿命は高く、乳児死亡率が低い」、「医療費が極めて低く、高度の医療である」、公平性が保たれ、フリーアクセスである」などの理由から、先進国中最高位にランクされている。これを見れば、社会主義的な日本の医療制度は十分に機能していると評価すべきだということになるだろう。
では次に、現在起こりつつある医療問題についてみてみよう。
医療の満足度と医師不足
医療サービスの供給よりも需要が多いのであれば、行列という方法によってサービスが配分されることになる。これは平等な配分方法のようにも思えるが、実際には、時間がたくさんある人が圧倒的に多くの配分を受ける制度である。
フルタイムのサラリーマンのように時間コストの高い人たちは、病院にいって診療してもらうということ自体が大きな時間コストになる。そういう人は、多少の体の不都合でも我慢することにならざるを得ないのである。
それだけではない。医療サービスを受けることのできる人たちもまた、長い待ち時間に対して、短い診療時間が見合っていないと感じているのである。
例えば、日本医学界が発表した、医師、看護師ら医療関係者と、一般市民約2万6000人を対象に実施した医療の現状に関する意識調査がある。そこでは「治療の選択に患者の意見や希望が生かされているか」という質問に対して、「十分生かされている」または「まずまず生かされている」と答えた医師は75.7%にものぼっている。しかし、一般市民で同様に答えたのは37%、看護師や薬剤師など医師以外の医療関係者は41.7%にとどまっている。
これの調査をまとめた大阪大学の堀正二教授は、医師と患者の認識の差について「診察時間が短く対話が不足しているのが原因ではないか」と語っている。これはつまり、医療が行列と待ち時間によって分配されているために、患者が医師に対して十分に質問したり、意思表示をしたりできていないことを意味しているのだ。
セカンド・オピニオンを求める患者に対して、怒りをあらわにするなどのドクター・ハラスメントも問題になっている。多くの患者は、医師に対して素人である自分の持つ意見や不安を表現しきれていないと感じているのだ。
私が時折いく機会のある、名古屋市内の某大病院での待ち時間は1時間ほどで、診療はおそらく3分程度である。統計によると、これは一般的だということのようだ。私がそれでも昼間に病院にいくのは、職業柄比較的に時間が自由に取れるためである。これが通常勤務のサラリーマンであれば、時間コストを考えるとなかなか病院にゆくことはできないだろう。
日本の医療は、低所得者にもあまねく均一の医療サービスを提供するという名目を掲げた、完全な国家の統制産業である。そこでは診療報酬が固定されているので、医療サービスの配分は、どうしても行列の待ち時間によって解決することにならざるを得ないのである。
その結果、時間の価値が高い人は、よほどの場合以外は病院にはいかないという生活になってしまう。医療は診療報酬が点数によって決まっているという、つまり社会主義制度なのである。社会主義では、金銭の支払い能力の多寡ではなくて、行列を作ることのできるような時間コストの安い人間が、忙しい人に比べてはるかに多くの財やサービスを分配されることになるのである。
行列による財の配分制度はまた、平均的な患者一人当たりの待ち時間が長くなり、実際の病気の診療時間は減ることを意味している。しかし、医師を責めるのは正当ではないだろう。彼らにとっては、ある患者に対する3分間の診療の後にも、長蛇の列をなした患者たちが待っている。その中にはどんな重症の患者がいるかもしれない。少しでも急ぎたいと感じるのは、医師として当然のことだろう。
しかし、問題はこの程度ではとどまらない。多くの地方都市の市民病院では、小児科・産科婦人科医が激務のためにいなくなりつつある。これは2005年ごろから広くマスコミでも報道されているため、ご存知の人も多いだろう。
小児科医や産婦人科医というのは、子どもの急な発熱や、妊婦の出産があるために、勤務が変則的になりがちである。そのため、医師の立場からすると、どうしても過酷な労働環境になってしまう。そのわりには診療報酬が低いため、そういった診療科目の医師は当然に減ってしまったのである。
前述の日本医師会の調査でも、小児科・産科・麻酔科などの医師不足の解決策についても質問をしている。結果、医師不足の解消策としては、医師の4割が「報酬を上げる」としているが、市民と医療関係者はいずれも「強制的に医師を配置する」との回答が一番で、3割以上が支持しているのだ。
しかし、これはナンセンスだろう。医師も人間であり、自分の望むライフスタイルをとる自由があるはずである。不利な労働条件にある診療科の医師を増やそうとするなら、報酬を上げるというしか納得のいく方法はないのは明らかである。
しかし、市民の反応には、根本的には、医師全般に対する不満があるのだろう。医師は高給であるのだから、無理やりにでも小児科や産婦人科に配置してもかまわないというわけである。これは本当なのかを、後ほど医者の生涯賃金について考える際に検討することにしたい。
さて、仮に自由な報酬に基づく診療市場があれば、小児科医や産婦人科医は、現在よりも高額の診療報酬をもらうことになる。なぜなら診療サービスの供給は、現行価格で望まれている需要量よりも少ないのである。市場に任せれば、診療価格が上昇することで供給は増え、逆に需要量は減少するだろう。
供給が増えるというのは、現在よりも多くの医師が小児科医や産婦人科医になろうとするということである。実際には、医師の診療科目の変更というのは難しいだろう。しかし、これから医者になろうとする医学生たちが専門を決める際には、労働条件は十分に考慮している。厳しい労働に対しても、現在よりも大きな対価が支払われるのであれば、かならず専門としようとする人は増加するだろう。
また需要サイドからみると、医療サービスが高ければ、診療を受けようとする人は少なくなるだろう。医療サービスが高すぎて受けられないというのであれば、それは倫理的な問題ではあるが、とにもかくにも、どうしても診療を受けたいという緊急の需要については満たされることになる。
仮にどうしても、小児科医や産婦人科医の医療サービスを現状以上に提供したいというのであれば、経済学者としては考えられる解決方法は二つしかない。一つは、彼らの診療サービスの保険点数をあげて、より高い報酬によって医療サービスの供給を増加させるというものである。これは、現在すでに政府が実施しようとしているもので、2008年度からの診療報酬の改定には小児科医と産婦人科医の報酬を引き上げることを検討している。
もう一つは、もっとドラスティクな改革である。それは、単純に医師の数を増やすというものだ。現在の日本には約27万人の医師がいるが、医学部の卒業生は毎年8000人程度に抑制されている。医者がインターンを終えてから40年間現役で働くとしても、このままでは32万人という医者の数が上限となってしまう。
例えば、旧国公立大学の医学部の定員を10倍にして、診療報酬制度を廃止したとしよう。おそらくは医者が多くなりすぎて、医者の平均賃金は極端に下がり、あるいは一般の職業とほとんど同じになってしまうだろう。
しかし、この場合、普通のサラリーマンと同じように、天才的な外科医は高額の報酬を得るだろうし、何の特別の能力もない医者は誰からも見向きもされず、ほとんど収入が上がらなくなる。医療サービスというのは、自分の命にかかわるものであるために、ほとんどの人びとは一握りの優秀な医者に見てもらいたいと常に考えている。どんなに待ち時間が少なくても、評判の悪い医者の診療は受けたくないのが事実だろう。
やや話がそれたが、結局医者の絶対数を増やせば、かならず小児科医も産婦人科医も増加するはずである。これは医療サービス全体の供給量を劇的に増加させることを意味している。その意味では望ましいだろうが、もちろん、それに伴って、医師全体の平均給与と平均的な診療技能は低下してしまうことになることは覚悟しなければならない。
コンビニのように待たずに低廉かつ(技能のそれほど高くない)医療を受けるか、それとも1時間待って、高い診療報酬を支払って(技能の高い)医療を受けるのか。それは車の安全性と同じで、一人ひとりがその場に応じて判断すればいいのだ。
医者になるのはそれほど割りがいいのか
さて、医者になるということには、どの程度の価値があるのだろうか。2007年4月に厚生労働省が公表した「2006年賃金構造基本統計調査」によれば、医者の平均年齢は約41歳で、年収はおよそ1300万円程度である。
子どもを旧国公立大学に入れて、600万円を教育費に支払ったとしよう。40年間でこの金額を回収するためには、利子が5%だとすれば、医学部にいかなかった場合に比べて、30万円程度年収が増加すればいいことになる。よって、旧国公立大学の医学部の学生は、大きな補助金を政府から受けていることになる。
もちろん、1300万円という勤務医の収入や、2600万円という開業医の収入は、金融セクターで働く人や、あるいは弁護士でも可能な数字である。医師の報酬は診療報酬制度によって上限があるため、多くの人が考えるほどには割りのいい職業ではないかもしれない。
医者はたしかに報酬も社会的な地位も高く、職業の与えてくれる満足も大きい職業である。しかしその反面、勤務時間も長く、激務でもあり、責任も重大だ。適性のある人びとには魅力的だろうが、そうでない人も多数いるというのが現実だろう。
しかし、多くが医者の子どもたちによって占められている私立の医学部では、授業料は6000万円にもなっている。その生涯賃金は授業料の分を貯蓄しておいた場合に比べて、それほど劇的には上昇していないかもしれない。もちろん、そういう学生のほとんどは親が医者で、すでに病院を開設しているのが現実である。その病院を相続できることが、大きなリターンを生むのである。
また、仮に現在の私立大学に通っている医学生が、同じ程度の学力偏差値の大学にいった場合の平均収入と比べれば、たしかに破格のリターンがあることも間違いない。理論的には、6000万円の借金をしても、将来の所得から返済可能なのだ。
つまり経済学的にいえば、私立の医学部の授業料をファイナンスするような金融制度もあっていいはずである。しかし、これまでの常識感覚からなのだろうか、医者の親を持たない医学生に6000万円の融資をする銀行もなければ、借金を背負ってまで、私立大学の医学部に進むという道を選ぶ学生も親もいないのが、不思議だが現実である。
厚生労働省の総医療費抑制政策
さて、厚生労働省は、今後の超高齢化社会では、終末期医療を含めて急速に医療支出全般が増えるのだろうという試算をしている。実際、2001年時点での日本の医療費はGDPの7,6%とOECD諸国中ほとんど最低レベルであるが、アメリカはすでに13,6%にも達しているのだ。国民皆保険の日本では、医療費は今後急速に増加すると予想されよう。
さて、今後の高齢者医療費の抑制にはさまざまな方法が考えられる。よく目標とされるのは、病院に来る必要性を下げる予報医学の充実や、寝たきりにしない病院の対応、などである。しかしこういった対策は、言われてみるともっともなものばかりだが、実際には実現できるかどうかは、政府のレベルではわからない。
それに比べると、医師の数を増やさないというのは、国家的な規模で確実に実行でき、かつ今後の医療費の抑制に効果があることが間違いない。そこで厚生労働省は、日本の医師の数を制限することによって、今後の高齢化社会の医療費の伸びを抑制しようとしてきた。
これまで政府は、医師が増えれば医療費が膨張すると宣伝し、医学部定員の削減を閣議決定までして、医師の養成を抑制してきたのである。基本になったのは、1994年の厚生労働省の審議会「医師の需給の見直しに関する検討会」による報告書だ。
報告では、人口十万人あたりの医師数は200人程度で過剰となるという議論がなされている。その結果、現在の日本の臨床医数は人口10万人あたりで200人になったが、アメリカでは240人、ドイツでは340人、イタリアでは420人なのである。
日本はOECD加盟30カ国中27位であり、周知のように地方を中心に深刻な医師不足が起きている。さらに医師の増加率も最低であり、日本福祉大学の近藤克則の推計による警告では、2020年には韓国、メキシコ、トルコを下回り、OECD加盟国中、最低の医師数になってしまう。
この理由の一つには、日本では女性医師の増加によって、出産・休業する医師が増えて、そのために診療サービスが試算されたよりも伸びていないということもある。しかし、都市部の医師数でさえも、OECDの平均値に届いていないのである。
医学は年々専門化、高度化し、細分化されてきている。人びとが求める医療のレベルは上がり続けているのであり、将来の医師の数は現在よりもはるかに多くが必要で、かつ増加し続けるだろうと考えるべきだろう。
たしかに医師が増えれば、それだけ医療サービスは利用され、医療費は増加するだろう。これについては、病院勤務医一人が増えれば、年間8000万円、開業医一人が増えれば6000万円の医療サービスの増加につながるという試算があるのである。
しかし、よく考えてみれば、一体どれだけの医療サービスが最適であると国民が感じているのかは、まったくはっきりしない。医療費の抑制を自己目的として、医師の数を減らすことによって医療行為を減らそうというのは、とんでもない反福祉的な政策ではないだろうか。
市場原理が貫徹しているのであれば、医者が少なければ、診療報酬の価格が上昇することになる。その結果、医師の供給は増えるだろう。現実の日本では、診療報酬と医師の人数の両方が国家的な政治によって決められ、まったく人びとの需要も供給も反映しないものになっているだけでなく、現実にその結果が医師の不足という最悪の事態なのである。
最後にここで、私がいつも気になることがある。それは政府などの使う「需給」という言葉である。これが経済学者のいう需要でも供給でもない。経済学者がこれらの言葉を使う場合、必ず価格がいくらであれば、需要はどれだけ、供給はどれだけと書く。
しかし、前述の「医師の需給」報告書では、医師の診療報酬が現在と同じであることがそもそも前提になっている。そもそも診療報酬を下げていけば、医師は貧しくなるだろうが、医師になる人がいなくなるということはない。
医師は激務かもしれないが、平均的な医師以上に働いている人はどれだけでもいるだろうし、はるかに低い収入である人がほとんどである。よって、水道にしても、電気にしても、現在の価格を前提にして議論するのは、役人の得意技だが、これは致命的に誤っている。どのような商品であれ、価格が下がればより多くのサービスが求められるのである。
現在ほどの所得が保証されなくても、医者にはたいへんな社会的な意義とやりがいがある。潜在的に医師になりたい人は、たいへんな数だろうことは、医学部の高い偏差値を見れば、およそ明らかだ。現在の医師の所得を前提にした議論は、診療報酬という利権を守りたい日本医師会の圧力以外の何物でもないのだ。
最適な医師の数はわからないが、
医療問題で困るのは、医師の数がどれだけである場合に社会厚生が最大化されるのかということが、はっきりしていないことである。言い換えれば、どれだけの医者の数が最適であるのかを算定するのが、ひじょうに難しいのである。
適正な医師数を算出するためには、現在とは違って、供給サイドも需要サイドも管理されないような、完全な医療の自由市場が必要である。供給量が制限され、さらに価格付けの自由のないような、社会主義的なサービスでは、それらは誰かが推定する必要がある。
自由な医療市場ということを、より具体的にいえば、まず国定一律の診療報酬ではないような、価格付けの自由な医療サービスの供給が存在する必要がある。同時に、現行の3割の自己負担率というような、これまた国定の画一的な料金支払いではない患者側からの医療サービスへの需要の、両方が存在する必要もあるのだ。
もちろん、この供給サイドと需要サイドの両面管理は、社会主義的な医療を提供するためには不可欠である。例えば、供給サイドを完全に自由化して、需要サイドだけを3割自己負担としてみたとしよう。
自己負担が3割なら、現在と同じように、人びとは些細な病気の兆候であっても受診しようとするだろう。また、医師は患者からの直接的な診療報酬の3倍以上が収入になる。結果としては、医師の数と医療サービスの量は過剰な供給となってしまう。人びとは国家の強制する医療保険がない場合よりも、はるかに高い頻度で医療サービスを受けようとするのである。結果、総医療費は爆発的に大きなものになるだろう。
引退した人たちが病院に足繁く通うのは、もちろん彼らが高齢者であって持病を持っている確率が高まることが主な原因ではあるだろう。しかし、同時に彼らの診療コストは保険制度によって低く抑えられている上に、待ち時間のコストはひじょうに低いからでもある。
どちらにしても、完全に自由な市場のない現在のところ、現在の診療報酬が適正であるのかも、あるいは現在の医師数が適正であるのかも知ることはできない。しかし、おそらく現状では、医師の診療報酬が過度に抑制されており、同時に医師が足りていないだろうということは直感的に感じられよう。
日本全国に27万人という医師の数と、現在の医学部の定員が7700人であるというのは、明らかに少なすぎるのである。これでは、今後ますます進む高齢社会の医療ニーズに応えることはできないし、病院での待ち時間はますます長くなってしまう。
2007年の日本の18歳人口は130万人もいるのである。いくら優秀な医者を社会が必要としているといっても、現在のように200人に一人が医学部に進学するよりは、その数倍程度の学生が医学を学ぶほうが望ましいだろう。そのために、わずかに医師の質が落ちたとしても、長期的には医療サービスの供給量が増えるという点で、より福祉が増進するのだ。
例えば、駿台予備校による2007年の偏差値一覧表を見ると川崎医大は54になっている。とするなら、その後の医師試験の合格を前提としてではあっても、どんなに少なく見積もっても一年間に20万人もの学力適格者がいることになる。
とすれば、医学部の定員が1万人以下というのは、どう考えてもおかしな話である。上述の「医師の需給についての検討会」では、過剰な医師が出ないようにということが議論されている。しかし、そもそも以下に述べるようなリピーター医師には適性のない人も多いはずで、そういった人は医療市場から退出してもらう必要がある。とすれば、医学部の定員はあまりにも少な過ぎるのは明らかである。
ゆがみは随所にある。例えば、旧国公立大学医学部の学生には6000万円以上の膨大な額が、授業料として補助されている。それもあって、これらの医学部の偏差値は、ひじょうに高いのだ。しかし、これは一部の成績のひじょうに良い学生に政府が巨額の補助金を出して、医師にしているということである。むろん、それは税金からであり、それは低所得である人たちからも集められている。
こういった、成績強者に対する優遇を改め、授業料をコストに見合った形に上昇させル必要があるだろう。学生が授業料を支払えない場合には銀行から融資をして、将来の収入から返してもらうべきである。そういう制度にしたとしても、おそらくなお多くの学生が医学部進学を希望するはずだ。そういった学生たちがすべて受け入れることが、効率的で望ましい社会をつくるのである。
しかし、開業医の多い日本医師会は、医師数の増加に当然に反対している。同時に、彼らは自分の子どもを医者にすることを考えて、むしろ常識的ではない高額の私立大学医学部の入学金・授業料を支払うのである。
医師の数が急速に増えれば、本当の能力主義が医学会に起こってしまう。そうなれば、子どもを私立医学部に入れて、医者にすることによって病院を継がせて、その将来を磐石なものにしてやることができなくなる。この意味で、厚生労働省の医師過小政策を支持しているのは、息子を私立医学部にいれるような開業医たちであることは言うまでもない。
リピーター医師はなぜいるのか
閉ざされた医師資格のもつ特権の一つは、医者という資格がひじょうに強く国家からも、医師会からも守られていることである。これは、日本医師会がひじょうに政治力の強い団体であることとも関係している。日本医師会は戦後を通じて、つねに自民党に政治献金をしてきた。政治活動を通じて診療費の上昇などを働きかける必要があったからである。
この弊害がもっとも顕著になっているのが、医療過誤を繰り返しながらも診療を続けている、いわゆる「リピーター医師」の問題である。医療過誤訴訟をおこなってきた弁護士の貞友義典は『リピーター医師 なぜミスを繰り返すのか?』のなかで、医療過誤を繰り返す医師でも、まったく医師資格は剥奪されず、医師会や病院から守られている現状を批判している。
そして興味深いのは、弁護士である著者が、リピーター医師は淘汰されるべきだと結論付けていることである。しかし、淘汰されるべきなのは、単に医療過誤を起こした医師ではない。ハイ・リスクでもハイ・リターンの手術もあるのだから、手術自体の潜在的な危険性を考慮したうえで医療過誤かどうかを判断するべきだ。
この点で、著者は弁護士であるために、医療過誤訴訟=凡ミスとしているのが問題ではある。ハイ・リスクでハイ・リターンの手術のミスを非難するべきなのではなくて、単なる凡ミスを繰り返す医師を非難するべきなのである。
しかし、「リピーター医師」が強調しているように、そもそも、なぜこのようなリピーター医師が存在し続けるのかといえば、医師の免許が剥奪されるということが現実にはほとんどないからである。もちろん、医師の立場からすれば、これはたいへんにありがたいことだろう。
医師になるには10年近くの勉強と修習が必要であり、その時間的・心理的・金銭的なコストはひじょうに大きなものがある。医師免許の剥奪というのは、それらをすべてムダにしてしまうことになるため、もっとも回避されるべき事態である。
例えば、一般的には非難の大きい麻薬や覚せい剤の使用だが、医師はこれらの向精神薬に簡単なアクセスを許されている。実際、これらの自己所有や自己使用によって逮捕されるという例は多いが、彼らはほとんど例外なく医師を続けている。
なお、私個人は完全な自由主義であるリバタリアニズムを標榜しているため、薬物使用は非犯罪化されるべきだと考えており、個人的には倫理的な非難もまったくない。あくまで、ここでは一般的な常識に従って議論をしていることは付言しておこう。
医師資格が剥奪される事例というのは、殺人、強姦、麻酔などを使った準強姦などだけで、その他の犯罪で資格が剥奪されることはまずあり得ない。これは飲酒運転で一発退職を要求される他の資格や職業と比較して、行き過ぎた保護のされ方である。
現実的な政策では
医療の待ち時間を解消させる現実的な政策は、前述したようにまず医師の数、つまり医学部の定員を現在よりもはるかに多くすることである。それによって、診療サービスの総量が増えることになる。なかには、僻地に行くという医師も出てくるだろう。現在、多くの僻地の病院で支払われている僻地勤務のプレミアムも、医者の絶対数が多ければ、より低くなる。
それと同時に、診療報酬制度を見直して、もっと自由に診療を価格付けさせるのが望ましい。常識で考えても、比較的に専門性の低い町の開業医と、非常に高い専門性を持つ大学病院の勤務医が同じ報酬で働くということ自体がおかしいのである。それなりに適正な価格をつければ、人びとはそれに応じて、行き先を変えるだろう。
診療価格を自由化すると同時に、保険制度もすべて民営化するべきである。各保険会社には3割自己負担だけでなく、4割でも、5割でも自由に決めさせて、各消費者にどの保険に加入するかを選ばせればいいのだ。
これによって、保険制度の範囲内で、我われは高い価格の名医に見てもらうか、あるいは低い価格で近所のクリニックに行くのかを決めることになる。これによって、現在のような診療を受けるための行列は解消されることになる。
我われの日常生活の中で、1時間以上もサービスを受けるために待つということは、病院以外にはあり得ない。あるいは有名なラーメン店なら別かもしれない。しかし、我われのなかでも時間に追われる多くの人びとは、より高額の医療であったとしても、少ない待ち時間で診療を受けたいと思っているはずである。
国家予算中の医療費が膨らむからというような、個人のレベルでは無意味な理由から医師の数を制限するというのは、ほとんど正当化し得ない反倫理的な政策である。診療報酬制度の公定も撤廃して、市場にすべてを任せてみよう。次第に医師の数は増えて、人びとは保険によって比較的自己負担を抑えながら、医療へのアクセスはより容易なものになるのである。
医療は自由に参入させて質の担保は格付け機関で
さてリピーター医師を淘汰させるためには、完全な市場が必要となる。これは、まさしくリバタリアン、あるいは究極的な小さな国家を標榜する市民が、医療の問題に対してとっている態度である。つまり、医師資格を国家資格とすることはやめて、市場に完全に任せるのである。
これは、世界の常識からしても、とんでもないことだろう。実際、すべての国家で医師は国家資格であり、エセ医療がなされないように、通常の大学教育以上の高い教育と資格試験の通貨が義務付けられているのである。
しかし、これだけ社会が成熟して、医療への市民の理解が深まっている現在、こういった制度は本当に必要なのだろうか。自由に医院や病院を開業できるというのは、そんなに突拍子もないことなのだろうか。
新しい医院ができて、そこで働く「医師」がどのような経歴を持っているかをみれば、別段、医師でなくてもかまわないかもしれない。現に整体士などは形成外科医ではないが、捻挫や骨折に関してはほとんど医者と同じ業務をおこなっている。心理カウンセリングも、医師もおこなっているが、それ以外にも臨床心理学を専攻してきた心理学系の研究者も同じように活躍している。
もちろん、内科や外科、眼科や泌尿器科など、多くの業務は医学に固有のもので、簡単に外部の人間がサービスを提供することはできない。とすれば、例えば、数多く存在する大学病院が独自に教育をして、卒業生を医師として認めて、開業を促すというのが現実的なソリューションとなるだろう。
松本医科大学を卒業した学生は、その資格で医療行為をする。同様に慶應義塾大学医学部の卒業生もその資格で開業、あるいは慶応医学部のコロニーとしての病院に勤務するのである。
同時に、大きな公立病院などは、採用する際に独自の試験をすることによって担当医師を選抜してもいいだろう。そうすれば、少なくとも病院単位では、ある程度信頼できる医療が提供されよう。
医療行為が儲かるのであれば病院は増え、それに応じて医者も増えるだろう。同じように、医者になりたいという人が多くいれば、医者の平均収入は減るだろうが、病院は増えるはずである。
これはつまり、医師資格の多様化を意味している。このことが不可解だと思う人は、次の例を考えてみてもらいたい。
私は漢方薬を基本的に飲まない。しかし、中国では当然として、またいくつかの日本の病院でも漢方薬は処方されている。しかも、多くの消費者、あるいは患者は漢方薬の使用は、西洋医学の生み出した薬と同じように考えているようである。
しかし、アメリカやヨーロッパでは、漢方薬はまったく薬としては使われていない。中国の医者と欧米の医者では、薬の常識が異なっているのである。しかし現実には、大きな問題は起こっていない。
つまり、漢方薬を処方するのが妥当だと思う人は漢方薬を使う医師資格者のいる病院に行けばいいし、それが信じられない人は、西洋医学に基づく医師資格者の病院に行けばいいだろう。これは、単純に我われが市場でリスク商品であるクルマを買うのと同じである。
あるいは、インドのアユール・ヴェーダなどのオルターナティブ医学もまた、取り入れられるかもしれません。私はそういったものに懐疑的だが、あるいは数千年の歴史の中には、疫学的に有用であることが実証されているものもあるかもしれない。
さて、これらの病院や医師は、それぞれがいくつかの病院格付け会社によって、格付けされることになる。それによって、どの医者の評判がどの程度いいのかを判断することができるのだ。この意味で、格付け会社は、たいへんな重要性をもつようになる。
これはおかしなことでもなんでもなくて、日本では医師会が反対しているために不可能となっているだけのことだ。実際、アメリカなどでは医師個人のレベルで、過去の医療経験や評判などがきっちりと公開されている。
日本にもそういう情報の原則的な公開と評価団体が必要である。あるいは、アメリカのやり方をそのまま持ってきてもいいし、アメリカ企業に上陸してもらって、評価をしてもらってもいいだろう。
ともかく、まず情報の開示が必要である。医師一人一人は、プロ野球の打者一人一人と同じくらいに異なった能力をもっているはずである。全員が同じ能力をもつなどという奇妙な幻想は捨てて、医師の能力も計量化による評価をして、それに見合った対価を支払うというのが、健全な医療市場への第一歩となる。
サラリーマンの年収は、社長から平社員まで、またあらゆる自営業者でまったく異なっている。同じように、医師の年収もまったく異なっていてもいいはずである。収入が下がると医療の質も低下するなどというのは、一人一人の評価が存在しないことを前提にした、社会主義者の主張だ。
自由な市場があれば、医療行為の質が下がった場合には、医師の評価が下がり、すぐに顧客はいなくなってしまう。一人一人の医師は今まで以上に医療行為の危険性と可能性に真剣に注意を払うだろう。
これがおかしな論理だと思う人は、私の乗っているニッサンの自動車について考えてみていただきたい。私は毎日家族とニッサンのクルマに乗っているが、私が自動車の事故で死ぬ可能性は、医師の医療過誤で死ぬ可能性よりも高いことは間違いのない統計的事実である。
とすれば、自分の自動車が安全でないというのであれば、即座に買い換えることになる。この事実こそが、単なる私企業である自動車会社の製品についての、全体的な安全性を保障しているのだ。
自動車が安全でも危険でも売れるという状況は、社会主義諸国に存在した自動車会社にあてはまる。そこで果たして、資本主義諸国の自動車と同じような安全性、快適性をもつ自動車がつくられただろうか。市場による淘汰は、結局は誰にとっても、より安価で安全な財の生産に結びつくのだ。
最後にこれまでは強調しなかったが、人間の職業選択の自由は何をおいても優先されるべきである。私は、多少学業成績がすぐれた医師よりも、人間的に誠実で医師としての使命感にあふれる医師のほうが望ましいと思う。読者が同じように考えるのであれば、そういった人が必ず医者になれるように制度を改めることに賛成してもらいたい。
現状では、国公立の医学部に入るためには単純に学業が優秀であることが必要であり、私立の医学部に入るためにはひじょうに裕福である必要がある。そのどちらでもないが、親族を病気で失った等の理由から、医者として人生を生きたいという人はたくさんいるだろう。現状では、そういう人たちは、医療関係職である看護士になるか、あるいは医学療法士になるか、などといった選択肢しかないのである。
私は小学校5年生のときに、少年チャンピオンに連載されていたブラック・ジャックを、毎週心待ちしながら読んでいた。私のころのブラック・ジャックの人気は現在はドクター・コトーに引き継がれているようである。
こういった話を読んで医者になりたいという純粋な中高生の願いを、成績や金銭で制限する必要などが、一体全体あるのだろうか。人の命を救いたいという人が、自分の判断で医療を処置できるようにすれば、結果的に医師の数は増えて、より多くの人間が医療サービスを受けることができるようになるのだ。
どのみち世間には、ゲルマニウム療法からウコンの力まで、奇妙なヒーリングビジネスは山のように存在しているのが現状である。だったら、トンデモではない医学を学習する気のある若者には、すべからく正しい医学を学習・実践するチャンスを与えるべきだ。それが、自由で豊かな社会の要請であり、また個人の職業を通じての人格の陶冶にも直結しているのである。
10、どうしても政府を作るのなら
私は無政府資本主義者である。無政府資本主義とは、政府の役割は、すべて民間会社によって代替可能であり、政府固有の業務など存在もしないし、有害なだけで必要もないと考えることである。
しかし、この本ではむしろ、弱者保護の政府を認めようという前提に立っている。この立場からでも、現実に政府の行っているさまざまな福祉政策が弱者保護という目的に完全に失敗して、我われの生活を蝕んでいるのかは明らかなのだ。こういった肥大化した福祉国家は、我われを貧しくし、さらに自由を奪っているのである。にもかかわらず、多くの人びとが政府の活動を肯定するのはなぜなのだろうか。
倫理判断から出発する人びと
およそ法律家というのは、ほとんどが反市場主義者だといっていいだろう。法律家はまず何が「正しい」のかを行為そのものから直接に判断する。いうなれば、ある行為は、その意図や一時的な効果によって、直感的に善悪が決せられると考えているのである。
成蹊大学の憲法学者である安念潤司は、『国家vs市場』というジュリストの論文において、至上主義の立場から、法律家の間では市場機構への不信が常識的であることを指摘している。彼は法律家の間では、モラル・エコノミーという考えが蔓延しており、それは市場主義とは反対のものであり、適正な価格での政府による生活物資の供給を要求するものだという。
実際、このような法律家のメンタリティは、さまざまな非効率を日本社会にもたらした。まず、日本においては、上述したような土地賃借人の過剰な保護がなされたために、それによって土地賃借市場は事実上消滅してしまった。また定期借地権の創設に際してさえも、賃借人が土地を50年しか借りられないというのでは、弱者保護にならないと主張して反対したのだ。
こういった土地賃借人の保護という表層的な正義の追求によって、日本では土地の貸し手は消滅した。結果的に、都市部に引っ越してきた戸建にすむためには、土地を買わなくてはならなくなったのである。
また、最近まで存在した裁判所競売の最低価格制度も、問題だと論じている。これは、事前に裁判所が決定した最低価格よりも入札価格が低い場合には、売買が成立しないことにするというものである。しかし、裁判所がいくらだといっても、市場がそれに納得しなければ、物件の利用は宙に浮いてしまい、結果的に財政負担を増やすだけとなる。
その他、かつてはマンションの立替に際しても、反対住民の利益を最重視することで、他の住民の利益はないがしろにされてきた。同じように、従業員の解雇規制をすれば、企業は雇用に慎重になり、若年労働者にそのしわ寄せが来ることになる。
これらのすべては、市場を重視する経済学者であれば、非効率性を生み出し、社会を窮乏化させるものとして、正反対の方向での判決を指向するだろう。
安念はこれらの傾向を批判的に紹介している。彼はまた、論文の冒頭において、早稲田大学の憲法学者である中島徹が法学セミナーに書いた、以下のような文章を引用してもいる。
「規制緩和推進論者は、「規制の緩和・撤廃と市場における内外無差別で公正有効な競争条件が整備されるならば、新規ビジネスへの参入や新サービス開拓による競争が促進され、生産の効率化、価格低下、内外価格差の縮小、消費者の選択肢の拡大といった国民にとっての利便性が向上し、それに伴い市場や雇用の拡大が図られることが期待できる」・・・と、効能を並べ立てる。まるで、規制緩和の推進こそが日本国憲法の前提とする自由主義経済秩序を真に実現することだといわんばかりだ。この論者たちが、規制緩和の憲法適合性に疑問を持つことはないだろう。」
安念はこのような反市場主義の宣言に対して、以下のように論じている。
「新古典派的思想に骨の髄まで冒されている私にとって、自由競争は社会的余剰を最大化し、社会的余剰の大きさこそ、「富」そのものであるから、自由な市場によってしか富の最大化を図れないことは自明の事柄に属する。自由な市場の否定は貧困への道であり、貧しい社会は、いかにノスタルジーで彩られようとも、その実態は例外なく、情け容赦ない弱肉強食の修羅場である。現実に照らしても、規制が少なくグローバルな競争を展開している業種は、生産性が高く良質の雇用を大量に提供しており、そうでない業種はそうでない。私にとって瞠目すべきなのは、こうした考え方と異なる考え方が有力に存在しているという事実そのものである。
ところで、規制緩和とは競争の促進であり、日本国憲法22条1項が保障する「職業選択の自由」を拡大することを意味する。してみれば、上記の中島の指摘は、職業の自由にさしたる価値を認めない立場、さらには、一種の反価値であると見る立場、換言すれば、市場への国家介入を積極的に是認し奨励する立場、に立つものということになろう。」
安念は、憲法学者でありながら、市場のもつ効率性と富の創出性を重視している。そして、職業の自由を重要視して、政治的な規制の緩和・撤廃を志向しているのである。
正直なところ、無政府主義者である私が驚いたのは、日本にも彼のような職業選択の自由を重視する憲法学者がいるということであった。私が単に不勉強なせいである。現状維持的な憲法学者が、職業規制を批判して市場主義を肯定することなどはあり得ないと決め付けていたのである。
さて、「適正」な価格が我われの倫理から導き出せるという考えは、昔から多くの人をトリコにしてきた。例えば、マルクスの労働価値説では、基本的に財の価格は投入された労働時間によって決まるのだと考えた。
これは今の用語でいうなら、特殊なサプライ・サイドのミクロ経済学である。しかし、この考え方は、ピカソの作品がなぜ数十億もするのかを説明できない。労働価値説は、記述や分析のためのツールというよりも、倫理的に妥当な価格を考える際のツールでしかない。
一部の渉外弁護士は事実上の法務ビジネスマンであるため、別にしよう。一般に法曹というのは、全体としてまず「正しい」行為なり、価格なりがあって、それが社会に「強制的に」通用するべきだと考えがちである。
これこそが社会主義の目指したところだったのである。価格は、需要サイドでは人びとの価値付けが存在し、供給サイドではその生産費用が存在する、その両者によって決まる。ピカソが1ヶ月で書いた絵であっても、それを欲しがる人びとが数億の値段をつけるのなら、費やされた労働量とは無関係に価格付けがなされるのだ。
これは、何が「正しい」のかという思考から出発する法律家にとっては、納得できないだろう。複雑な社会では、「正しい」あるいは「適切」な価格や賃金などは算定できない。にもかかわらず、法律という国家権力に裏付けられた権力によって、法律家たちは市場よりも自分たちの合議で「正しい」価格を通用させることができると考えるのだ。
利己的な遺伝子
ここでのポイントは、「正しい」価格を決定する際には、不可避的に、正義についての個人的な価値観に基づかなければならないということだ。そして、残念ながら、正義というのは、各人の心の中に都合よく存在しているものなのである。
私は、小学生のころに仮面ライダーに夢中になっていた。仮面ライダーでは、明らかに社会の征服をもくろむ悪の結社であるショッカーが、手先として怪人を送り込む。毛面ライダーは彼ら悪の手先をなぎ倒し、正義を守るのである。
同じく、大好きだったのは、マジンガーZである。マジンガーZでも、世界征服をもくろむドクター・ヘルが、次々と手下のロボットを送り込む。それを正義のロボットであるマジンガーZがなぎ倒すのである。
たしかに正義は、仮面ライダーやマジンガーZの世界では明らかだが、大人になって社会を見わたしてみても、何が憎むべき悪行なのか、あるいは倒すべき悪の秘密結社なのかは、一向にはっきりしない。現代の複雑な社会では、フリーメーソンやユダヤ陰謀理論でも信じなければ、悪という存在はそれほど明確には認識できないのである。
例えば、我われサラリーマンは、よく自分の給料の話に花を咲かせる。しかし、私は寡聞にして、自分が給与をもらいすぎていて、ハッピー極まりないという人に出会ったことがないのである。多くの友人・知人が自分の働きに対して、自分の給与は少ないという。
同じことだが、「働きの悪い同僚がいて、足を引っ張られて困る。どうして、ああいう輩と自分が同じような給料で働かなければならないのか」という意見も聞きがちである。
客観的に考えれば、社会全体の中では、ほぼ半数が自身の働きよりもたくさんの給料をもらっているはずであり、半数は働きの価値よりも少ない給料しかもらっていないはずである。しかし、私の聞くところでは、どうやら私の周りには、自分の働きよりも少ない給料しかもらっていない人ばかりだというのである。
もちろん、これは単なる認識論上のタチの悪いジョークにすぎない。我われの誰もが自分のことを高く評価しており、人よりも働きがいいと思っているということなのだ。たいした調査ではないが、ヤフージャパンのウェブマガジンである『チャージャー』2006年4月号をみると、20代、30代のサラリーマンの74%が現在の給与に不満を抱いている。実際の意識も、総じてこんなものだろう。
どちらにしても、我われの認識は自分に都合がいいようにバイアスが入るものなのだ。自分が米作農家であれば、「日本の伝統を守っているのに、なぜ政府はもっと強気で外国政府のコメ輸入解禁要求に反対しないのか?」と自分の職業の社会的・文化的な価値を強調するだろう。
あるいは、私が勤めているような私立大学でも、「資源のない日本では、教育というのは今後の日本経済を支えていくためには不可欠であり、産業の高度化でますます大学教育の必要性は上がっている。政府が補助金を増やすのは当然の義務だろう」などと主張している教員が普通である。
いったい、自分のやっていることが、政府の保護に値しないような、ほとんど無価値なものだと認識している人がどれだけいるのだろうか。たいへんに、疑問に思う。
つまるところ、我われはチンパンジーと祖先を共有する500万年以上もの昔から、集団間で対立抗争を繰り返してきた子孫なのである。自分のやっていることにたいした価値はないなどという謙虚な姿勢は、建前では尊重されても実際に信じるにはあまりにも難しい話なのだろう。
進化心理学あるいは社会生物学の非常に有名な研究に、歴史学者であるローラ・ベツィグによる『専制政治と差別的な繁殖:歴史のダーウィン主義的な視点』がある。彼女はそこで、歴史上の専制国家の支配者の享受していた、繁殖価の上昇について研究をした。
彼女はまず、有史以来の6大文明、バビロニア、エジプト、中国、インド、インカ、アステカにおける支配者が、すべての富と権力を支配していたことを指摘する。これ自体は常識だろう。
しかし、それらの権力者たちは、かならず数百人から数千人にも及ぶ女性からなるハーレムを所有し、多くの場合は去勢した宦官によって警護させていた。これらの女性たちには、女性は育児をする間には排卵が止まるので、育児を必要がないように女性たちには乳母がつけられ、権力者が最大限の人数の子どもを持つことができるように設計されているのが普通だった。
これは別に驚くようなことでもないし、実際よく知られていることだろう。例えば日本でも、織田信長には19人の子どもがいたし、徳川家康には23人の子どもがいた。江戸時代、将軍の側室たちが住む場所は大奥と呼ばれ、そこでの価値はいかに後継者たる男児を産むかというものであった。つまり、男子禁制の将軍のハーレムであり、その機能は後継者生産組織であったわけである。
つまり、権力を握るもの、あるいは現代では資源を獲得できるものは、他人よりも多くの子孫を残してきたのである。とすれば、人間、特に男性が、自分と対立する勢力、自分の利益を脅かすような存在は、すべて「邪悪」なものだと認識するようになっているのは自然なことだろう。
つまり、建前上は謙譲の美徳は存在しても、本音では誰しもが自分の能力と成功を当然視しているのだ。それは、六本木ヒルズなどに住む成功者たちにとっても同じだろう。彼らは、安穏としたサラリーマンとしての人生を選ばず、リスクの高い起業家となったのだ。人の下で言われたとおりのことをしているサラリーマンに比べて、数万倍の報酬をもらうのは当たり前だと思っているに違いない。
かりに彼らからその収入のほとんどを税金として徴収しようとしても、彼らは彼らなりの道徳意識から、そういう行為は倫理的に許されないと認識するだろう。そして、もちろん、政治家を通じて、納税の抜け道をつくってもらうのである。
こういった正義の認識の問題とは、あまりにも解決の難しい、人間の根本的な本性である。だからこそ、私はまず、我われの一人一人が「自分は基本的に利己的であり、かならず正義は自分の側にあると認識するものだ」ということを前提にして、社会制度を作るべきだと考える。
どこかに素晴らしく平等の理念に燃えており、まったく自分や家族、親族、友人へのヒイキをしないような人間がいると考えたりするのは若き日の特権である。大人になってみると、そういった理想的な人びとを官僚なり、政治家なりとして政治を任せるというのは、仮面ライダーの世界でしかあり得ない理想論なのだ。
修身済家治国平天下、あるいは哲人政治
さて政治思想史をふりかえってみると、多くの政治哲学者が、「政治を行う人物達が、その人間性を高めることによって、より良い政治が実践され、その結果としてより良い社会が実現する」と考えてきた。
このような考えは「徳治主義」と呼べるだろう。政治という圧倒的な実力の行使者が、個人的に徳目を積むことこそが、政治にとっては第一に重要だという考えである。これは西洋でもプラトンが、哲学を修養した賢人によって政治がなされるべきだと考えたことで知られている。
プラトンの師であったソクラテスは、アテネの民会によって死刑を言い渡され、毒杯を仰ぐことになってしまう。プラトンはその結論を下した民主主義よりも、賢人によって指導される政治体制のほうが信頼に値すると思ったのだ。
同じ発想は、孔子による「修身済家治国平天下」にも見られる。まず、身を修め、次に家を安んじて、それから国を治めれば、天下も平和がもたらされるというわけである。ここでは、社会の福祉は、すべからく政治家の個人的な人徳のレベルに還元されてしまっている。
しかし、西洋の近代民主主義をつくってきた思想は、モンテスキューの「法の精神」やホッブズの「リヴァイアサン」、さらにロックの「政府二論」などである。彼らは、統治者の人徳による善政の施しを期待するのではなく、むしろ、統治者は独善と独裁に陥ることが多いということを前提として、どのような政治システムを採用するのが望ましいかを考察したのである。
その結果が、独裁権力を排することをねらった三権分立であったり、あるいは独裁政治の否定のための革命権の肯定であったりしたのだ。政治家の人徳に期待するよりも、制度を確立して、人徳のない政治家を前提としても機能する仕組みを議論したのである。
その結果が、現代の全員参加型の民主主義政治である。それは始めから政治家や官僚の無謬性を前提にするのではない。あるいは時に不正も起こるかもしれないが、それらは民主的なプロセスによって矯正されてゆくだろうという考えなのだ。
これは偉大な発明である。私の考えでは、これは西洋人の作り出した真に独創的な思想であり、まさに脱帽するべき考察である。19世紀になるまで、我われ東洋人は孔子の伝統の上にウタタ寝を続け、2500年以上も徳治主義にこだわり続けてきた。
その結果が、現在の中国やヴェトナムの汚職天国である。所詮、バクテリアから進化してきた人間は自己中心的に世界を認識するようになっているのだ。
誰もがマザーテレサのような聖人になれるものではない。政治家に人徳を求めすぎるのも考え物である。人はみな基本的に利己的なのだという単純な事実を前提にして、政治システムをつくるべきなのだ。その結果が民主主義なのである。私はこれが究極の社会制度だとは思っていないが、それでも徳治主義や哲人政治という名の独裁政治よりもマシなことについては疑っていない。
インドの経済成長をみると
フリードマンの『選択の自由』には、1990年ソヴィエト崩壊以前の統制経済におけるインドのインテリ企業家が、いかに自分の利益を正当化していたのかの記述がある。やや長くなるが、興味深い記述なので、私が一部省略、改行した形で引用してみたい。
「どこへ行ってもインテリたちは、自由企業に基礎を置く資本主義体制や自由市場は大衆を搾取するための巧妙な手段でしかなく、中央集権的経済計画こそが後進国を将来の急速な経済発展の波に乗せてくれるものだと、当然のように考えていた。われわれはインドを訪ねたとき、きわめて成功した、有名で教養の大変深い企業家・・・から、厳しくしかりつけるようなお説教を受けたことを、なかなか忘れることができない。
そのインドの紳士は、われわれの質問がインドの詳細な中央集権計画に対する批判であると思ったからお説教をしたのであり、しかも彼がそう思ったのは実は正しかった。いずれにしてもその人は、これ以上間違えようがないほどはっきりした表現の仕方で、われわれにこういった。
すなわち、インドのように貧しい国の政府は、輸入を統制し、国内生産を管理し、投資の配分を直接規制する以外に方法がない、というのだった。こう主張することによってその企業家は、自分が収めている成功をもたらした源泉以外の何物でもない経営活動分野のすべてにおいて、政府は自分に特別の認可や許可といった権限を与えるべきだと、実は主張していたのだ。
そしてそのすべては、そうすることによってだけ、個人たちの利己的な要求を抑えて、本当に社会のためになることから実現していくことを確実にすることができるから、というものだった。」
フリードマンほどの経済学者をしかりつけるというのは、私のような凡人には信じられない勇猛果敢である。しかしここでは、そういう大胆な行為によって、まさに利己的な利益というものが常に公益の皮をかぶって主張されるということが、浮き彫りになっている。
1990年のソヴィエトの崩壊を受けて、インドは基本的に統制経済を廃して、自由経済に大きく舵を切った。20年前、私が大学生だった頃、フリードマンの記述にあるようなインドの貧困は永遠に続くかに思われていた。当然ながら、自由化以降次第にプラスの効果があらわれて、ここ数年のインド経済は9%を超える成長を続ける、まさに絶好調である。
実際、私は4割という少なからぬ個人財産を、インド株式に投資している。そもそもゼロを発見し、鬼才ラマヌジャンを生んだインドは、本来は数学的に有能な人材の宝庫だったのだ。今、日本の書店にはインドの2桁の九九の練習長があふれているということは、それを我われが再評価している証拠だろう。
それが、社会主義の統制経済の重石によって、長い間、停滞し続けていたのだ。統制経済の桎梏から解き放たれて、今後は以下に説明するようなソフト開発を中心とするIT産業だけではなく、製造業も勃興して、世界の大国になると私は信じている。
ちなみに、まったく同じことは、より早くに中国でも起こっている。文化大革命による大混乱を経て、鄧小平による改革開放は1976年から始まった。現在の中国には、独裁制であるという問題はあるものの、戦後の高度成長の時代の日本と同じように、本当の大躍進をとげている。
ともに社会主義的な統制経済を廃したインドと中国の現代史には、共通する部分がある。インドの改革・開放は、中国よりも15年遅れて始まっている。一人っ子政策が進む中国に比べて、若年人口がひじょうに大きく、近い将来には人口も逆転するだろう。とすれば、今後のインドには中国以上の大きな可能性があるのではないだろうか。
拡大する格差をどうするのか
グローバル化がすすむ現代は、所得格差の拡大が問題視されている。世界的にも、前世界銀行総裁であり、ノーベル経済学賞まで受けているジョセフ・スティグリッツは『世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す』で、市場原理主義が問題なのだと断定している。『ワーキング・プア』の問題は、アメリカでも大きな社会の懸念を呼んでいるのだ。
これは日本でも、基本的な状況は同じである。『希望格差社会』で山田昌弘は、日本でも所得の不平等が広がっているとして問題視した。多くの読者の記憶に新しいだろう。
世界の貿易がこれほど大規模には進展しなかったら、たしかにアメリカ人や日本人の所得はもっと均質化していただろう。さらに、現在はインターネットによるバック・オフィス業務などもインドや中国にアウト・ソースされているから、サービスもまた貿易と同じように「貿易」されている。これもまた、所得格差を広げる要因になっている。
世界貿易とインターネットがなかったなら、我われの所得ははるかに一様になるかもしれないが、それと同時に現在よりも貧しくなる。つまるところ、日本には何の資源もないし、加工貿易か、あるいは芸術などのサービスの輸出によってのみ、石油やウラン、鉄鉱石などを得ることが可能だからだ。
戦後長らく「南北問題」が指摘され続けた。それは、北の先進国と南の途上国の国際的な経済格差の問題だったのである。貿易が現代ほど盛んでなかったころには、北の先進国に生まれただけで、高い平均所得を享受できたのだ。反対に、南の途上国に生まれれば、貧困から逃れるのは至難の業だったのである。
しかし、世界貿易の急増とインターネットの発達は、たとえ先進国にいても、単純労働をするのであれば、途上国並みの賃金しか得られない時代をもたらした。その反対に、途上国に生まれても、世界に通用する能力を持っているなら、先進国の基準に準じた高賃金を得ることが出来るようになった。
これは、ジャーナリストであるトーマス・フリードマンの『フラット化する世界』の扱ったテーマである。彼は、インドのIT企業であるインフォシスやタタ・コンサルタンシーでは、先進国からのソフト開発業務を受注して、賃金もそれに応じて先進国並みに高くなったことを生き生きと描き出している。いまやインドや中国のほうが、日本よりもはるかにソフトの開発能力は上なのである。
ワーキング・プアというのは、この反対の事例である。日本に生まれても、日本産業の強みを引き継げない人びとは、世界の中では、途上国の単純労働の賃金にまで所得が低下してゆく傾向にある。
たとえば、宮崎駿の映画は、日本人のもつ美的感覚やアニメのノウハウの集大成である。世界から高く評価される彼の作品のようなもののために、世界の人びとは喜んで大きな対価を支払っている。同じように、レクサスのハイブリッド車には、内燃工学やバッテリー技術、エネルギーの回生などの多様な技術の集合であり、トヨタはこの技術のために世界から高く評価されている。
こういった世界市場における日本の強みを生み出している職業についている人びとと、それに関係のない単純労働をしている人びとを比べてみよう。そこに、かつての南北問題と同じような所得格差が発生するのは、ほとんど論理的な必然となる。
こういった格差を、政治力を使って縮めようとするのも無理はな。私も以下に提案しているような、直接的な所得補助もあるだろうし、それ以外にも最低賃金法などの強化もある。あるいは所得税率の累進性の引き上げを重視する人もいる。
しかし、私見では、何をしても、市場主義と世界貿易、サービスの自由な交換が進む限り、所得格差の問題はますます大きくなると思う。おそらくは、人間の能力や生産性がまったく異なったものである以上、所得差が生じるのはごく必然なのだ。
これに対して、対症療法的に所得の再分配をするのも、たしかに一つのやり方である。しかし、私は本書で述べてきたように、生活コストを下げることによって、低所得者の実質的な所得を増やして行くことを考えるべきだと思う。
もちろん、この理由は、政治介入は官僚国家、スパイ国家に陥りがちであり、常に非効率であることもある。しかし、それ以上に、我われ人類の利用できる科学技術は刻一刻と上昇しているのであり、低所得といえども、現実に十分に生活ができるようになってきているからである。
100円ショップが激増したのがいい例である。あるいはパソコン、液晶テレビやデジタルカメラの価格低下の速さを見てみよう。我われの生活費は、刻一刻と安くなってきているのだ。
重要なのは、政府の規制に守られて高止まりしている電気、ガス、水道、食糧、医療なのだ。前述したようにこれらは世界の2倍以上の値段で高止まりしている。これこそが日本人の生活のガンなのだ。弱者を踏みつけにして、電力会社の社員が高給をもらっている現状は、徹底的な新規参入の許可でしか変えることはできない。
所得の格差の存在それ自体を問題視するよりも、人間がゆっくりと自分らしく生きられるための基礎的な基盤が、政府規制によって蝕まれていることを重視すべきなのだ。そしてそれは、すでに多くもない農家の利益を優遇するためにご飯は8倍、パンは3.5倍の値段になっていること、あるいは既存のエネルギー産業の権益を守るために、世界の3倍近い価格を請求する強者の優遇によって成立している。
しつこくなるが、私は大学院時代にカリフォルニアで月に600ドル、およそ7万円で生きていたが、電気・ガス・水道などでは5000円も払わずとも十分だったし、毎日パスタを食べていたが、1万円で十分な量が食べられた。日本では、特殊権益の網の目のために、こういった生活必需品が高いことこそが一番大きな問題なのである。
「あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか」
著名なイギリスの分析的マルクス哲学者に、ジェラルド・コーエンという人物がいる。彼は、平等主義者の多くが裕福であるという現実は、果たしてどのようにして肯定できるのかを、その著『あなたが平等主義者なら、どうしてそんなにお金持ちなのですか』において論じている。
多くの平等主義者が裕福であるというのは確かな事実である。それは資本主義諸国でも事実だし、ソヴィエト時代のロシアや現在の中国、ヴェトナムでも同じである。
あるいは、そういった建前上の社会主義国は、もっと現実を直視して「独裁資本主義国家」と呼ぶべきなのだろう。しかし、どう呼ぶにしても、ロシアの上層階級では特権によって赤い貴族が黒海沿岸に別荘をもっていたこと、現在の中国やヴェトナムでは官僚の多くは賄賂の受け取りで大豪邸に住んでいることは、間違いない事実だ。
我われの多くはつまり、公式な場で政治的な発言をする場合には、平等は大事だという。それ以外の発言は、すべて格差容認の差別主義者だと思われるからである。しかし、実際に自分たちの個人財産を貧しい人びとに分配するという考えに対しては否定的である。
あるいは、「それはあまりにも小さな割合の人しか助けられない」とか、あるいは、「自分が国家に平等主義的な政策を採用させるためには、すべての財産を寄付するわけにはいかない」とか、いろいろな言い訳をとりつくろうわけである。
しかし、私は、もっとすっきりした説明があると考えている。それは、「平等主義者のほとんどすべては、国家の権力と強制力を使って、自分の理想とする平等主義を実現したがっている人々なのだ。あるいは平等という結論そのものよりも、国家権力を掌握して自らが指導者になり、自分の平等観を人々に施すことを望んでいる人々なのだ」というものである。
これはまた、前述した進化的な人間性の理解とも、完全に適合的である。平等感覚の進化とは、部族内での財の分配の不満を和らげるためのものだったはずだ。不平等があるときは、平等を唱えた人が下層階級からの支持を受けて政治的に有利になるだろう。それが下層階級と平等主義者の互恵的な関係を作り出して、平等派は政権を獲得できたのだ。
これもまた歴史に普遍的なパターンでもある。紀元前594年には、古代ギリシャの政治家ソロンは一大社会改革を断行した。彼は、借金から債務奴隷になってしまった市民を解放し、同時に債務奴隷になるという金銭貸借契約を無効だとしたのだ。同時に平民の責任を定めなおして、貴族と平民の緊張の緩和を図ったが、彼はペイシストラトスから批判され、事実上の亡命を余儀なくされるのである。
同じように、古代ローマでも紀元前二世紀後半には、グラックス兄弟による没落市民のための改革が、元老院の反対を押し切って実行されている。彼らは、護民官として、農地を失って難民化する平民たちを擁護しようとしたのだ。しかし結局は、二人とも元老院の反対等の理由から暗殺されたりしている。
平等主義的な社会改革は、現状で虐げられた状態にある人びとの支持を受ける。それは昔から変わらなかっただろう。だからこそ、イギリス清教徒革命のクロムウェルや、フランス革命のロベスピエールやのような平等主義的な独裁者が政権を握り、多数の政敵を虐殺してきたのだ。
まとめてみよう。私は、ここで、平等主義者たちも、しょせんは隠れ独裁者でしかないといっているのではない。そうではなくて、平等主義者たちのいう、平等という理念そのものが、最初から暴力的な政治的手段によって実現することが前提視されていること、そして自分がそのような国家の指導者になること、を前提としているということをいいたいのである。
左翼批判の名言を述べるなら、「政府が各人の職業を決定するような社会を主張する社会主義者の中に、自分が便所掃除をすることになると考えるような輩はいない」のである。社会主義を唱える誰もが、自分の意見や価値が現状よりも高くなることを前提としていること、つまりは平等主義者は「その建前の理念とは逆説的に自らが指導者になる」ことを当然視しているのである。
だれもが政府を自由に動かせるのなら
左翼人士たちは、「日本はこういう政策をとって、平等社会を目指すべきだ」とか、あるいは、「グローバリズムや市場原理主義を廃して、人間らしい社会を構築するために、こういう政策を採るべきだ」などと盛んに現状改革を訴える。誰しもが、政府を自分の思うような方向に動かそうとして、人びとを説得しようと無視できない量のエネルギーを投入しているのだ。
しかし、公共選択の理論が明らかにしているように、ほとんど定義によって、弱者が使える資源に比べて、強者の使える資源のほうがはるかに多い。自分が強者であれば、弱者保護の政策によって税金をとり上げられるのを等閑視するはずがないのだ。当然に政治家にロビー活動をして、弱者保護は経済成長に不利であることを説得したり、あるいは税制に実質的な抜け穴を作ってもらおうとするだろう。
結果、弱者保護は民主主義の政治過程のなかでほとんど骨抜きにされることになってしまう。
また前述したように、弱者保護という政策をとるべきだというのは、社会における一つの価値観でしかない。高所得者層の人びとは、彼らなりに自分たちの高所得を肯定するような価値観を持つようになっている。例えば、起業のリスクをとったことであるとか、あるいはリスク資産に投資をしたことであるとか、あるいは必死で勉強して医師や弁護士になったことであるとか、である。
例えば、現在の年収が一千万を超えるような人びとの一人一人に対して、もっと納税をすることを望むかといえば、明らかに応えは否定的なはずである。それは、高所得者の誰もが、人生史の中でのいろいろな出来事を、自分の高収入を正当化するような状況証拠として認識しているはずだからだろう。
例えば、私は、楽天の社長である三木谷浩史とは、ほとんど同世代である。彼は日本興業銀行の銀行員だったが、インターネットの可能性にかけて、脱サラして楽天を起業した。日本においては、起業した会社の9割以上が一年以内に倒産するか、休眠化しているのである。それを考えれば、彼のような興銀マンが年収の2000万をなげうって、起業したことには、少なくとも数十億程度の見返りがあっても当然なように思う。
かつてライブドアをつくった堀江隆文も、あるいはミクシィを運営する笠原健治も、東大時代にプログラミングからはじめて起業し、巨大な起業を作り上げている。つまり彼らは、安全な公務員生活、あるいはサラリーマン生活を拒否して、大学時代からずっとウルトラ・リスキーな生活を送ってきたのだ。
考えてみてもらいたい。原理的には、すべての大学生に、彼らのような成功への道が開かれているのである。彼らの所得を税金で奪うのは、左翼人士には当然なことかもしれませんが、たいへんなリスクをとりながら、明日をも知れない会社を経営してきた彼らが納得するとは、到底思えないのである。
左翼人士の思考では、自分が考える「正義」は当然に他のすべての人にとっても当然に正義であるようだ。そして、それに反対する人というのは、状況を理解していないか、あるいは勘違いをしているのか、あるいは「道徳的に誤った価値観」を持っているのか、のどれかでしかない。
しかし実際の政治過程は、多様な社会勢力、多様な価値観のぶつかり合いの中で、すべてが妥協的に一時的な合意をみるというものでしかない。これがこれまでの章で見てきたように、民主主義社会において、建前は福祉国家であるにもかかわらず、政策としての弱者保護はほとんど骨抜きにされる理由である。
私の提案も含めて、「弱者保護のためには、こうするべきだ」と語るのは、酒飲み話としては面白いかもしれないが、実効性はない。特に政治制度、法制度が複雑になればなるほど、むしろ多様な法制度の抜け穴が増えて、弱者は踏みつけにされて、強者の利益が知らないうちに増大化されるのである。
再分配のみの小さな福祉国家
とはいえ、もう少しばかり真面目に弱者保護政策について考えてみよう。
弱者保護を実現するためには、まず税制度をシンプルにしなければならない。現在のように多様な控除制度が存在していれば、それは納税者にとってわかりにくく、不便なだけでなく、結局は高額所得者の抜け道につながること必定だからである。
ミルトン・フリードマンは、『選択の自由』において、負の所得税を提案している。これは、例えば、200万円という基準を決めて、それ以下の所得の家計には、200万円との差額の何割かを支払うというものである。
例えば、100万円の所得の世帯があって、補助率が5割だとすると、200マイナス100で、100万円の差額の内の5割、つまり50万円が支給される。まったく働けなくなった高齢者世帯でも100万円の所得が保証されることになるのである。
この制度の素晴らしい点は、低所得者層の働く意欲を維持できることにある。100万円の所得世帯の誰かが働いて、50万円を儲けたとしよう。150万円の所得になれば25万円の補助金が減ってしまうが、それでも一家の総所得は150万円から175万円に上昇する。
これに対して現行の制度では、生活保護を受けている家庭では、勤労所得が発生した場合には、その勤労所得全額の分だけ生活保護額を減らされてしまう。これでは、生活保護を受けている人は、誰も働く気にはならないのだ。
なお、もともとのフリードマンの提案は、200万円なりの基準所得を超えている人びとは、その所得税率が次第に上がってゆくというものである。しかし、私の考えでは、200万円なりの基準以上の高所得家庭は所得税を納めなくてよいと思う。
前述したように、電波の競売だけでも10兆円が出てくる。1999年の『国民経済計算年報』によれば、全国の固定資産は892兆円、土地は1497兆円である。これを抜け道なしの0.1%で課税しても、24兆円にはなる。
なお、所有権を最重要視するリバタリアンであれば、固定資産税などは完全に廃止するべきだというだろう。それならそれでもかまわない。10兆円の半分を警察・裁判・軍備に回しても、残りの5兆円でも現在の生活保護世帯である100万世帯に年間500万円が渡るほどの量だからだ。
現在の財政投融資は当然に廃止することにする。また道路を民営化して、各種の関税も完全に撤廃し、職業規制も撤廃すれば、この30兆円の予算で十分に「直接的に」弱者に補助金を出してなお余りあるはずだ。
私が、なぜ高所得の人びとに課税することに消極的なのかといえば、前述したように、高所得の人びとはより節税に対して、多くの時間や金額を割くことができるし、課税逃れをしようとするだろうからである。10億円を稼ぐ人間が専属の税理士を雇うことはありがちだろうが、節税のために人間の知的な労力が使われることほどバカバカしいことはない。
同じことだが、節税のために外国に居住する日本人が増えるというのはもっと望ましくない。人間の活動はますます多様化し、これからは工場でハードを作るというような職業に代わって、さまざまなエンターテインメントや知的な情報の生産が中心産業になってゆく。
世界のどこに住んでもできる仕事は、急速に増えてゆく。日本で高い所得税を課すというのは、もっと税金の安いタックス・ヘイブンに移り住む人びとが増えることになってしまう。また、世界中の人びとが、活字なり映像なりのインターネット・コンテンツを楽しむ時代には、むしろ日本に創造的な人びとが集まってくるような税制のほうが望ましい。
また、多くの公務員の給与は現在よりもはるかに低い賃金体系に改めるべきだろう。当然ながら、賃金が低ければ、優秀な人材は集まらない。これは事実だが、そもそも役人というのは、まったく生産活動にも創造的な活動にも従事しない上に雇用は安定しているという人々だ。そういった人びとが優秀である必要などまったくない。
アメリカでは、優秀な人間は公務員などにはならず、民間企業でその能力を発揮する。その後、大統領に推薦されて政府高官となるのである。このような制度でも、アメリカの政府が日本政府よりも劣っているようにも思われない。
現にアメリカの高級官僚などは、政権交代のたびにトップ3千人規模が、優秀な民間人から登用されている。日本でも、同じことをやればいい。あとの公務員は、政治家や上層部の決めた業務を単純に粛々とこなすのだ。かりに公務員にそれほど優秀な人材が滞留するとすれば、かえって日本社会の活力の損失というものだ。
よって、所得税は廃止し、負の所得税のみで弱者を直接に金銭補助する。それ以外の一切の政策は即刻やめるべきとなる。いろいろと法的な制度を作って弱者保護をすれば、かならず立法過程で強者の介入や官僚のお手盛りが発生してしまう。その結果が、前章までにみた弱者の踏み付けなのだ。このことは、平等を目指す人びとには十二分に理解していただきたい。
タロックの5%の利他性
さて、一切合財の積極的な政策を憲法22条1項の解釈や、あるいは憲法改正レベルで禁止したとしよう。そのとき、我われが価値だと考えるような公共善は、どのようにして実践されるのだろうか。
このような場合にこそ、ヴォランティアや各種のNPOが重要になる。なぜなら、現在国家がおこなっている各種の政策の価値は、国民の一人一人においてまったく異なっているからである。
これは、多様な価値の存在を認める、豊かで自由な社会では必然的な状態である。私は時にパガニーニの音楽を聴くことがある。ということは、バイオリン教育の価値をそれなりには評価しているわけだ。しかし、アルバイトをしながら、必死でスカー・バンドを作って生きてゆきたいとがんばっている私の元ゼミ生もまた生きている。彼にとっては、バイオリン教育などの価値は感じないだろう。これだけ多様な社会で、我われ一人一人の感じる価値が一致するわけがない。
東京藝術大学のパトロンになりたい人は、自分の個人財産でなればいい。なにもロックしか聴かないような、一般庶民からの税金で運用すべきではないのだ。これは、警察、裁判、外交、国防などを除いた、政府のおこなっているほとんどすべての政策に当てはまる批判である。
タロックが、人間はせいぜい5%が利他的であるという発言は、収入の5%程度の公益活動への寄付をするのが最大限度だろうということを念頭においたものである。しかし、これを日本の現状に当てはめてみよう。日本のGDP500兆円の5%は25兆円にもなる。これだけの資金があれば、相当程度の弱者保護が可能だろう。
現在は政府がしているような、多様な公共的な活動は自発的な団体が取り組むほうが効率的なはずである。自発的な団体は、その構成員のモティヴェーションにおいても、またやり方においても、政府よりも効率が高いからである。
例えば、日本の文化として稲作が大事だという人は、直接に自分の所得の5%を、稲作農家のつくるコメを買うことによって保護すればいいだろう。あるいは、芸大の日本絵画教育が価値だと思う人は、自分で日本画家の作品を買ったり、あるいは直接に芸大に寄付をしたりすればいい。
どういう形にしても、「公共性」というものは我われが社会的な存在である限りは残る。しかし、その「公共」なるものが強制力を持つ「政府」によって行われるべき必然性などはどこにもない。
我われは自らの価値観に応じて、公共的な活動をしたり、あるいは他人を支援したりすればいい。政府は強制力を伴っている以上、その活動において謙抑的であるべきである。多数派の支配する政府が、特定の価値観を正しいものとして支出をするということは、それに反対する人の資源をも無理やりに供出させて、少数派の価値観を踏みにじるということだからだ。
政治活動というものの意義
最後に、政治というものの価値について強調しておきたい。
我われの価値観の中には、進化心理学者のいうところの、原始的適応環境の名残が色濃く残っている。それは、「政治」活動全般への尊敬と当然視である。部族社会で暮らしていた我われの祖先は、多くの場合に集団的な意思決定をすることが必要だったはずである。
あるいは、他の部族からの襲撃があるかもしれない。あるいは、力をあわせて大きくて危険な動物を狩る必要があったかもしれない。あるいは、どの方向に移住するかを決めなければならなかったかもしれない。
これらの集団的な意思決定には、対話もあっただろうし、影響力の強い個人の独断もあったはずである。どちらにしても、原始的な環境では、部族一致で何かをおこなう必要が多かった。このため、集団に対して強制力を使ってもまとめることは必要であり、また価値もあったのだ。これが、政治活動が重視され、政治家が世間で「えらい」人たちだと形容される理由なのだ。
私は中学・高校時代まで、この種の「政治活動は重要である」という公民道徳にどっぷりとつかっていた。政治活動は公共的なものであるのに対し、経済活動は私利私欲を満たすためのものであり、卑しいものだと感じていた。
いまも、政治学者の著作には、このようなテーマが繰り返し巻き返しあらわれて、我われは政治活動に参加するべきこと、少なくとも投票による意見表明をなすべきことを称揚している。
しかし私は今、政治活動というのはとんでもない偽善活動であると考えている。
かつて6歳の私の娘が私に、「総理大臣ていうのはどんな人?」という質問をしてきた。詳しく民主主義制度を教えるのもあるいは良かったのかもしれない。何度かうまく説明できなかった末に、私は「みんなの生活を良くするためにいろんなことを決める、一番えらい人だよ」と答えた。結果、娘はそれに納得したようであった。
私が本当に思っていることは、いつか娘が大学にいくようになったら話してみようと思っている。しかし、それにしても「えらい人」という概念は、ほとんどどんな子どもにも即座に理解できる直感的なものなのである。
しかし、私の考えでは、政治家とは、人びとから無理やりに金を集めて自分たちや自分たちに投票してくれる利益団体、あるいは自分たちを支えてくれる役人集団の利益を図る、社会的パラサイトである。
このことは、初期の権力がどこにおいても専制的であったことを考えれば、いっそうよく理解できよう。ヤマト王権は畿内を支配する専制国家であり、魏志倭人伝によると東海地方に君臨したクナというクニもあったようである。あるいは日本海側のイズモ、紀伊半島のイセ、伊那谷などを勢力範囲とするスワなどもあり、抗争していた。
ヤマトはこれらの他の政治勢力との抗争に競い勝った。私が生まれ育った北陸にもコシと呼ばれる勢力があった。かれらとの長い間の抗争の末に、ヤマトが勝ち、コシの支配者の娘との政略結婚によってコシの領域を併合したのである。
こういった戦争は、昔でこそ、生産活動の基礎となる領土の拡大という意味があっただろう。しかし、現在の富を生み出しているのは、企業や人びとの経済活動である。なぜ、何も生産しない政治家の活動がこれほどにニュースなどで重視され、素晴らしい行為をしているかのように報道されるのか、私には疑問である。
おそらく、部族の首領たちを「えらい」と感じない人間は、結局は部族から追放され、あるいは極端な場合には殺されていったのだろう。人類史上を通じて起こってきたこのような淘汰によって、我われには、「集団の権力者を尊敬する」、「集団の権力者になりたい」というプ心理ログラムが進化発達したのである。
結論として私は、テレビなどのニュースでは、政治家が何をしているのかよりも、むしろ、どんな人がどんなボランティアをして、あるいはどのように資材を投じて世の中をよくしているのかを報道すべきだと考えている。
しかし、啓蒙的合理主義の光で、政治活動の本質を見てみよう。現代の政治家の中には、人びとが喜んで金銭と交換しようとする財やサービスを自分の力で作って、それによって資材を蓄え、それを公共の福祉のために使った人など一人としていない。彼らは、単に人びとから税金を巻きあげ、自分やその支持者たちの価値観を他人に押し付けているだけなのだ。
有権者としての我われには、衆議院銀選挙、参議院銀選挙、都道府県知事選挙、県会議員選挙、市長選挙、市議会議員選挙、など、多くの投票機会がある。彼らの公約なりマニフェストなりを検討して、一日をかけて投票する代わりに、その一日を使って何らかのボランティアをするばどうだろうか。おそらく、はるかに「何か本当にいいこと」が実現するだろう。
我われは理性の力によって、自分たちの精神的な政治活動への信仰、あるいは「権力」への信仰を払拭する必要がある。これはたしかに難しいことであり、あるいは不可能なのかもしれない。しかし、私自身は可能だと考えているし、いつか人々に、現在の民主主義のように広く共有されるものになると信じている。
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ミルトン・フリードマン、ローズ・フリードマン 『選択の自由』 西山千明訳 日本経済新聞社 1980年
保屋野初子 『水道がつぶれかかっている』 築地書館 1998年
バートン・マルキール 『ウォール街のランダム・ウォーカー』 井出正介訳 日本経済新聞社 2007年
ビョルン・ロンボルグ 『環境危機をあおってはいけない 地球環境のホントの実態』 山形浩生訳 文藝春秋 2003年
山崎元 『山崎元のオトナのマネー運用塾』 ダイヤモンド社 2002年
『お金をふやす本当の常識』 日本経済新聞社 2005年
山田昌弘 『希望格差社会』 筑摩書房 2004年
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