事業拡大ではなく確実な人生の痕跡を

仕事をしていると当然のことであるが
事業を拡大し
取引を増やし
従業員も増やし
分業制にして
といったおきまりのコースをたどり
その後は
内輪もめ、独立分派、内部不正、内部告発、人間不信、自殺、怨恨、長く続く裁判、乗っ取り、銀行の豹変、
といったこれもおきまりのコースをたどり
企業のひとまとまりの人生を終えることになる

考えてみると
最初は「実業」だったものが
次第に人との戦いになり、帳簿とのにらめっこになり、だんだん抽象的になる

はじめはカメラなりシャツなりの実物を手にしていたはずである
それが次第に数字だけを扱うようになる
実物が忘れられて抽象化する

抽象化の果てに残るものが何であるかと考えると実際虚しい
実物ならば例えばカメラを年代ごとに並べることも出来る
そのほうがいい人生だなと最近は思える

白菜でもボールペンでもいいから実物を扱おうよ

抽象的になってくれば
儲けも桁違いに多くなるけれど
それは帳簿の中のことであって
「実感」はやはり、実物が与えてくれるものではないだろうか

抽象化すれば疲れがない
人間を相手にしてコンピュータを相手にしている分には
いくらでも仕事が出来てしまう
それでは際限がない

それよりも実物を相手にしている方が
現実に筋肉の疲れもあり心地よい眠りもあり
いい人生になるのではないかと思う

最近思うけれど
やはりこれから先我々の子孫は何を食べていくのだろうか

輸入した食品を食べるのだろうか
防腐剤や農薬のしみこんだもの
我々はもう年よりだからいいとしても
若い人はそれではかわいそうだとおもうのだ

おいしいものを食べるには
おいしいものが育つ環境がなければならないと思う
おいしい魚が育つ海が必要だし
おいしい野菜が育つ畑が必要だと思う
それが実物なのだと思う