自己愛性人格構造

採録 http://www.studio.co.jp/ichihashi/doc/01.html

少子化と現代の子ども <自己愛性人格構造の視点から>

始めに

渋谷区で開業して3年になる。クリニックはNHKや代々木公園の近くで、渋谷や原宿は徒歩で20分くらいの距離にあって若者が多い街といえよう。
私がこれまで診療してきたのは都立の大精神病院や下町にある精神科救急病院であった。地方の精神病院にも勤務したこともある。診療所の立地は患者を選択するのであろう、私たちのクリニックには青年期の精神障害、たとえば学校不適応症、PTSD、多重人格(解離性同一性障害)、自己愛性人格障害、境界性人格障害、摂食障害の受診が多い。抑うつ症状も、これまで診てきた内因性うつ病ではなく、ほとんどがパーソナリティ障害を基盤とした抑うつである。そしてその治療から、現代の子供の置かれている状況が次第に形を持って立ち現れてきたと実感している。

精神科医は自分の臨床という狭いスリットを通して現代を見る。したがって私の見た現代は「群盲、象を撫でる」ような、狭い視野からのぞいたものであるかもしれないが、それだけにある意味では鋭く見通すことができるかもしれない。私の直感は、あらゆる意味で日本が今大きな分岐点に差し掛かっているということである。

従来の家族問題論

これまで現代日本の家族問題は過保護、過干渉、あるいは放任、虐待というような文脈で語れられてきたように思う。その背後に強力な母と弱い父という日本的母性社会の構造も指摘されてきた。また、社会文化的病理については教師の資質の問題、経済的豊かさ、企業戦士としての父、教育に熱心すぎる母、遊び場のない子供、ファミコンなどのゲームの蔓延、テレビやビデオなどの映像の影響などなどこれまで指摘されてきた。しかし、事態はもっと複雑であろう。

少子化は何をもたらすか

子供が少なくなったことは、いくつかの、しかし決定的な変化を家族の構造にもたらした。また家族の意識、価値観にも影響を与えてきた。

そもそも生物がなぜ多くの子を残すのかといえば、種の繁栄のリスクを最小限にするために違いない。高等動物に子が少ないのは、産まれた子供がすでにある程度出生時に外敵から守れるほど成熟しているか、育児行動を発達させたためといわれている。すなわち、少なく生んで上手に育てるという適応行動を身につければ母体の負担は軽くなり、種の繁栄維持にも役立つのである。さらにヒトという種は他の霊長類に比べても育児期間がとりわけ長いが、この成熟の遅さが教育とその結果として外界への適応力を高め、ヒトという種の繁栄をもたらしたといえよう。

人間はいわば未成熟なまま出生してくる特異な種である。それは育児とか教育を前提として生まれてくる種であると言い換えてもよい。しかし長い間人類は決して少子ではなかった。飢餓や疫病による人口の激減、あるいはひどい環境衛生や貧しい栄養状態などによる乳幼児死亡率の高さは我が国が産業革命を迎え近代社会に移行するまで常に襲ってきた歴史である。平均寿命も50歳を越えることは長らくなかった。そして現在のような高齢社会とともに、一人っ子や二人っ子というような少子の時代を本格的に迎えたのは高度成長時代に突入してからである。この時代にあっては何よりも教育が重視され、また家族は核家族化してその中で「小さな幸せ」「豊かさ」が第一の価値基準となった。

高い教育、豊かさ、余暇の有効利用、限られた居住空間での快適さという制約を追求すれば、家族構成が少子化してゆくことは当然であろう。しかし、強調しておかなければならないのは、このような時代の到来は我が国だけでなく、人類誕生以来、第2次世界大戦までかつてどこも経験しなかったという点である。生物学の教えるところによると、絶滅に瀕するときに種は多くの種を残そうとする。環境的-栄養的豊かさに恵まれているときには、種はそれ自体の生命維持に取りかかり、種を残そうとしない。そうした観点から見ると、少子化というのは豊かさと平均寿命の延長と青年期の延長と無縁なことではないかもしれない。豊かさや文明の成熟は少子化をもたらすのであろう。

子が沢山いれば、一人ひとりに割ける親の関わりは質量とも少なくなる。また出来の悪い子がいても、あるいは早死にしてもそのリスクは分散される。子供に対する期待は薄められ、また親を期待できない子どもたちはきょうだいとの絆を必然的に深めざるを得ない。

また子供をとりまく環境にも大きな変化が起こってきた。まずメディアや映像の氾濫、ゲーム機器の発展による遊び場や遊び方の変化等である。これらの遊びは本質的に他者を必要としない遊びである。もう一つの問題は競争原理が子どもたちの世界にも及んできたということであろう。

「輝いていたい」子供達

子供が少なくなれば、当然競争は少なくなるはずであった。しかし現実は学校社会や遊びの世界まで広範に競争の原理が働いている。成績(偏差値)は言うに及ばず、スポーツ、体型、容貌、人気、持ち物や衣服(ブランド)、友人の数など子供の生活のあらゆる領域にわたって競争が入り込み、子供たちは自分と比較し、あるものは小さな勝利感を得、そして大多数は心に傷を受ける。子供は「なにかで輝いていないといけない」のである。摂食障害の患者が述べる言葉は、かつてのような「成熟拒否」ではなく、「取り柄がない自分」であり、「せめてみんなができそうで、できないダイエット」に挑戦するのである。そして体重が落ちると、彼女(彼)らは「勝った!」と満足感と充足感を感じるのだという。その背後にあるのは、茫漠たる自己不信感であり、孤独感である。

親の欲望と投射としての「親の期待」

現代の父は現実の会社世界での体験から、子供たちにある人は高い教育を、あるいはスポーツや芸能を、ある人たちは望ましい規範を身につけてほしいと願い、母たちは少子化の結果として生み出された膨大な余剰時間を使い、自分が成し遂げられなかった願望を投射して子に期待を持って育てようとする。親の子に対する期待の本質は自らの欲望であることに親たちは気づかない。つまり、親の育児は「親の都合でかわいがっている」ことになる。そのときに起こる現象は、子の側にあっては、自分が無条件には愛されていないという感覚であろう。子供の気持ちにそった共感性のある育児は困難になり、子にとって親は自分を映し出す「良き鏡」の機能を失う。そして幼児的万能感を譲り渡してもよいと思うような「大好きで強くて優しい大人」との出会いに失敗する。幼児期に甘えられなかったとすれば、次の発達段階で獲得する切符は「自尊心」だけであろう。この自尊心という切符はその表に誇大的自己(自分は特別な人間である)が、裏に嫉妬と羨望が印刷されている。充分に受け入れられ、無条件に愛されているという感覚が乏しい彼らは、手にした唯一の切符を手放すことができなくなる。彼らが前思春期に突入したときに現実の「思うとおりにならない事態」に直面し、そこで自己愛的な様々な問題が生じる。

バタフライナイフ事件と学級崩壊

1998年起こった黒磯の「中学一年生バタフライナイフ女教師殺人事件」は、こうした現象がもはや一部の大都会の病理ではなくなっていることを示している。著者は新聞報道の範囲でしか知ることができなかったが、概略以下のような事件だったと記憶している。

少年は保健室登校をしている子供であった。不登校傾向と心身症の過敏性大腸炎を持っていたらしい。クラスでもどちらかといえばいじめられ役であったようだ。彼は授業に集中せず、教室をウロウロしていたというから、注意欠損多動性障害であったのかもしれない。そうした彼が教師から注意を受けたときに、持っていたバタフライナイフを突きつけたときに、教師が怯まなかったことが彼を逆上させ、滅多刺しをしたというものであった。

少年は教師が彼の万能の象徴であるナイフを向けたときに、彼の前にひれ伏すと思っていたに違いない。その万能感をうち砕かれた瞬間、彼は「キレた」のである。その機構は少年自身もおそらく説明をすることができなかったであろう。怯まない相手に怒りを感じるという心理は通常上位者が下位者に対して感じる感情である。こうした機序に自己愛構造を認めることは困難ではない。

学級崩壊も万能の王様である「学童」が、もはや学校の統制機能を越えてしまった現象である。両親も教師ももはや「手応えのある大人」ではなくなってしまった。数十年前の私たちのこども時代では大人は絶対であった。もちろん大人に対する不信感や反抗はあったが、それ以上に我々の前に立ちはだかる壁であった。私は全共闘時代に医学部生活を送ったが、当時の私たちの行動は父なるものへの反抗であり、闘争であったのかもしれない。現代の子どもたちは注意され、叱責されると深く傷ついてしまうか、激しい怒りを表出するか、引きこもってしまう。万能の自己が壊されるからである。

今日の登校拒否の子供たちは一部は分離不安やADHDなどの発達障害あるいはいじめなどの被害者であるが、中核群といわれる登校拒否児が「自己愛性人格障害傾向」であることはこうした子供を治療した臨床家の印象であろう。彼らが現実の一見取るに足らないような挫折や屈辱を契機に引きこもり、家族に暴力を振るうようになるのはまさに自己愛性人格障害の特徴である。彼らは病的に誇り高く、傷つきやすい。誇大的自己がそれなりに機能しているときには彼らは現実を生きられるが、いったん思うとおりにならない事態に直面したときに、彼らの誇大的理想自己は破綻し、一挙に抑うつ、怒り、引き籠もり(栄光ある撤退)、強迫(かりそめの完全な世界を構築しようとする)などの反応を引き起こすようになる。

症例

ある受験生が抑うつを主症状に来院した。彼女の父親は病院の検査技師でいつも「医師は威張っていて良い身分だ」といい、二人姉弟の出来がよい姉(患者)に「医師になれ」と期待をかけて勉強させていた。弟は成績も良くなかったために、半ばあきらめて放任して育て本人によると、「あんな出来が悪い弟をかわいがり、私にはいつも厳しかった」と恨み言を述べている。嫉妬と羨望の感情である。彼女の成績が順調であったときには何の問題もなかった。しかし、一浪してその後の成績が伸び悩むようになると、彼女は自分は何の取り柄もない人間だと思うようになり、両親から見捨てられるという不安を強く持つようになったのである。彼女にとっては親の愛は無条件に愛されるのではなく、医師になれるならば愛してあげるという条件付きであったのである。当然であるが、両親にはそうした意図はない。起こった状況がそのような図式を子供に与えたのであり、親の欲望がそうさせたのである。彼女には人の苦痛をはかるとか、気持ちを汲むとかいう共感性はきわめて乏しく、自己評価は低く、それでいて自尊心は病的に肥大していた。取り柄がないといいながら、「実は自分は特別な人間であり、他は自分よりも下の人間である」という他者に対する見下しが隠れていた。

摂食障害

摂食障害についてはまた詳しく書く機会があると思うが、1960年頃の摂食障害と現代の摂食障害はずいぶん臨床像も異なってきている。すなわち、過食エピソードを持つ神経性無食欲症(アノレキシア・ネルボーザ)の激増であり、受診者は過食と自己嘔吐・下剤濫用だけをやめたいと希望する。しかし、彼らの本音はやせていたいのであって、過食は過度のダイエットから二次的にもたらされるものである。彼らは「人が自分をすごいなという目で見て欲しい」と思う一方、「取り柄のない自分」を強く意識し、自分を好きになれないという自己不信が中心にある。摂食障害は食欲の病気ではなく、「人からどう思われるのか」という意識に関連する自尊心の病理である。ここにも自己愛の問題が控えている。

強迫症の患者にも自己愛の構造が隠れていることが多い。また境界性人格障害の患者にも、自己愛性人格障害の合併例が多くなってきたように思う。治療論はまた別の機会に譲るとして、自己愛構造を持つ子供が増えてきた背景には、少子化の問題が一つ控えているように感じる。彼らは期待に応えられるような子であることを求められるような、条件付きの愛で育てられ、自然な共感が与えられることが乏しく、かつ物質的豊かさによってほしい物は何でも与えられ、長じては親が子供の肩代わりをして幼児的万能感を持続させる環境を与えている。しかも、「周りはみんな競争相手で、のんびりしていても陰で勉強しているのよ。信じちゃだめ」などというようなメッセージを送り続けているのである。競争世界を用意しているのは、社会であり、家庭なのであろうか。