治療としての面接 鈴木二郎

方法としての面接―臨床家のために (医学書院) 土居 健郎 (著)
という入門書があり、
タイトルはその発展形ということだろうと思う。

この方面は神田橋 條治、中井久夫、成田 善弘、笠原嘉と渋いところが並んでいて、
いずれも入門的な本であるが、最終的な本でもある。

鈴木二郎先生とは多少のご縁がある。
鈴木先生は関根義夫先生と職場をともにされて、
治療観も共有できるとのお話であった。
わたしは関根義夫先生のご指導をうけた立場なので
共有しているもなにも、信じ込んでいるような具合である。
そんな関係で、共有する部分があるのではないかと思っている。

学生の頃、宇宙論とか世界観の本を読んでいて、
J.C.Ecclesの本を翻訳しつつ読んだ。
意外にうまくできたので丸善に言ったら
相談に乗ってくれた。
「脳と宇宙への冒険―人間の神秘」か
「脳と実在」かであるが
多分前者で「Human Mystery」だと思う。
版権の問題を調べていたら
当時東邦大学で教授だった鈴木二郎先生の出版が分かり、
こちらは諦めた。
いま鈴木二郎先生の医院の隣の駅で開業しているので
やはりご縁があるのだろう。
先日お食事をさせていただいた。
まだまだ旺盛に先のことを考えていらして、
とても勉強になった。
食事しながら精神療法してもらったようなものだろう。
ありがたい体験であった。

あとがきの中で
土居健郎先生や中井久夫先生のことが出てくるが、
影響力のある人格というものは何回も会わなくても、
何かが残るものだと思う。

わたしも将来、もう少し考えがまとまったら、
鈴木二郎先生や関根義夫先生、
さらには松波先生、内海先生、秋山先生、津田先生の学恩を記したいものだ。

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鈴木二郎著
治療としての面接

四六判 200頁 定価2,730円(税込) 2001年3月刊

面接は,精神科臨床の独自の方法論である。精神療法の基本であるとともに,一般身体科の診察においても必ず行われる重要な治療的出会いである。
 本書は,その面接がいかに治療的意味を持つか,また時に用い方を誤ればいかに有害にはたらくかを,著者が自身の臨床経験をもとに書き下ろしたものである。
 クライエントに重要な意味を持つ「出会い」としての初期面接,クライエントへの問いかけ方,クライエントのストーリーを読むこと,物語を聞く(聴く)ためのプロとしての技術,見立ての効用,共感することとは,など,多くの臨床的知見がわかりやすく述べられる。
 面接の実際場面は,治療者と患者の微妙なやりとりに満ちたものである。後半部において著者は,多くの症例を提示しながら,精神科臨床における職業人としての治療者の心得と役割をも明らかにしている。

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おもな目次
第I部 面接とは――その意味――
第1章 序論――治療としての面接
第2章 面接の意味と現象
*人と人,人生との向かい合い――患者から学ぶ――
第II部 面接がなぜ治療であるのか
第3章 なぜ治療でありうるのか
第4章 治療者の役割とクライエント
*見立てと処方
第III部 症例編――病態に応じて――
1 精神分裂病
2 強迫神経症
3 うつ病
4 不安神経症
5 心気神経症
6 摂食障害
7 境界性人格障害
8 ヒステリー(解離性障害)
9 不登校
10 脳器質性障害,脳血管性障害
11 アスペルガー症候群
12 てんかん
13 心身症

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まえがき

 ここに書こうとすることは,私が長年精神科臨床に携わってきて,その重要さや意味をとくに強く感じている「面接」とその「治療的意味」についてである。私も多くの臨床家同様,臨床場面では常々精神療法と薬物療法を武器にしてきた。その間,この数年「面接」の大切さを痛感しており,今回,若い精神科医,心理士にそれを伝え,経験を積んで十分おわかりの方々にはあらためて「面接」の意味を整理していただければと願う次第である。
 「治療としての面接」というタイトルは,数年前から自然に私の脳裡に浮かんできたものである。浮かんだあとで思い当たったのは尊敬する土居健郎先生の『方法としての面接』である。臨床家の必読書ともいうべきこの著作にもちろん私自身は大きい影響を受けており,類似の名称を用いるのは不遜のそしりを免れないと思われる。しかし本書は,私なりに経験し,考え,感じたものを記述するものであり,本書のタイトルと同様に自分の中で醸成したものであることをお断りして土居先生はじめ読者の御寛恕を乞いたい。
 さらに読み進んでいただけばわかるように「面接」が精神科臨床の独自の方法論であることはもちろんであるが,それにとどまらずいかに治療的意味をもつか,あるいは逆にいかに有害に働くかを私自身の経験をも含め,多くの先輩,後輩の精神科医,心理士の方々の現場で実際に見聞して痛感して来たことが底流にある。数年来このタイトルで数回ほど方々の精神科医や,心理士の研究会等で話させていただいたが,幸い大方の共感と多くの反響を聴衆の年齢,専門を問わずいただいた。そうした機会の質問や感想を含めて書き下したのが本小論である。お読みいただくだけでも喜びであるが,さらに忌揮のない御批判をいただければ望外の幸せである。最近内科医を主として,一般身体医師からも「医療的面接」の重要さを指摘する声が高い。また国試にさえ出題される勢いである。本書はそうした面すべてを考慮に入れているわけではないが,医師-患者間の面接の基本にあるところは確固としたものであることを述べていきたいと思う。

筆者自身について
 どのような著作でもそうであるが,ことに精神科臨床,精神療法を語る場合は,筆者の人間性が露呈される。そこでいっそのこと読者の理解のために,私自身の臨床歴を簡単に記すことにする。興味のない方は,本論にお進み下さって結構である。
 まず東大医学部精神科,通称赤レンガ病棟で4年間過ごした。もちろん精神科臨床の初歩を教わったのであるし,秋元波留夫教授以下多数の優れた先輩,同僚,後輩がおられたのであるから,もちろんさまざまな影響を受けた。しかし本当に臨床に目覚めたのは,内村祐之先生の晴和病院においてである。ここで躁うつ病,神経症,初期分裂病の症例を多く経験し,内村先生の診断を学んだ。次いで都立松沢病院でハードな精神医療に出会った。どちらの病院も勤務年限は短かったが,松沢病院では,その後約15年外来を経験させていただいた。同じ頃お茶の水女子大学の学生相談室で,いわゆるカウンセリングから重症の精神疾患のケースまでを経験した。
 その後十有余年前から現在まで,自分自身で,さらに若い人々に教える立場で,豊富な症例の診療に当たっている。ここであらためて記しておきたいのは,私が若い時に学んだ大教授の先生方と異なり,現在も私自身が診断し,治療を続けているということである。外来では殊に難しい症例を私が受け持ち,入院では若い受持医とディスカッションしながらともに診療しているのが実状である。またこの39年間さまざまな精神病院や企業の病院,相談室で実にいろいろの経験を積むことができた。しかし生来怠惰なせいで,こうした臨床について語ったり書いたりしたことがほとんどない。筆者の論文といえば主に生物学的研究領域が大半で,いわゆる生物学派と見なされている。しかし本人は臨床医でもあると思い,実践してきたつもりである。このことに関して臨床と生物学的研究の問題あるいは個と普遍性の問題なども含めていずれ書いてみたい。
 精神療法に関しては,土居先生のセミナーにわずか(おそらく3回ほど)出席させていただいた位である。しかし土居先生と河合隼雄先生の御著書をかなり拝読し,御講演を拝聴して多くの影響を受けているであろう。土居先生のセミナーでは,中井久夫氏が14歳の男の子のチックの症例を提示され,最後に絵の中トビウオを描き,「海の世界はいいもの陸の世界はいづらいや」との少年のみごとな報告をされたことが印象に残っている。この症例提示に土居先生はじめ出席者皆々が感嘆されたことも鮮明に記憶に残っている。しかもこれが中井氏の最初の症例発表であった。最近古い書類を整理中に,中井氏自筆のテキストプリントが出て来た。あらためて読み直して再度感嘆した。氏に電話して確認したところ,よく記憶しておられ,症例のお話をされた。ここにこのようなエピソードを書くこともご了解いただいた。
 また,私自身が強く影響されているのは,Peter LomasのTrue and False Experienceで,たまたま宇野昌人先生からいわれて翻訳し,『愛と真実』として出版した(訳が拙劣でこれも改訳したく思っている)。また本書執筆にあたって,土居先生の先の御著書や神田橋條治氏の『精神療法面接のコツ』他ももちろん参考にさせていただいた。
 このように,私の面接あるいは精神療法はいわば独学に等しい。しかし精神療法というものが個人に属するもので,精神療法家が100人いれば100通りあるといわれながらそれでいてそこに普遍的な妥当性がなければならないとも思い,私の考え方や実践もその将外ではないと思いつつ,本書を著わす次第である。大方の御批判を乞いたい。
  2000年3月