祝祭性と狂気
故郷なき郷愁のゆくえ
沖縄・宮古島から送る精神病理学再生の希望
1 私的経験から――序にかえて
2 これはシャマニズム論ではない
3 比較文化精神医学の方法はとらない
4 民俗学管見
5 南の島の祝祭性
6 カミダーリあるいはカンダーリ
7 カンカカリャとカンダーリの時間論的差異
8 〈祝祭性の伝統〉とは何か
9 〈神霊性〉としての〈動物性〉
10 カンダーリとエロティシズム
11 水の信仰と生命の形
12 カンカカリャの物語の必然性・プロット
13 池間島のユークイ
14 〈狂気〉と生活
15 〈瞬間の狂気〉を媒介する場の変質
16 一つの封印としての現代精神医学
17 精神病理学の〈絶対的過去〉をもとめて
18 〈瞬間の狂気〉から「歴史化」された狂気へ――結語にかえて
あとがき
渡辺哲夫(わたなべ てつお)
1949年 茨城県生まれ.
1973年 東北大学医学部卒業(医学博士).
都立松沢病院,東京医科歯科大学,正慶会栗田病院,いずみ病院(沖縄県うるま市)を経て,現在,稲城台病院勤務.
本書は,30年以上首都圏で臨床に携わってきた著者が2005年初頭に沖縄に移住し,宮古島を訪れるようになったことを契機に執筆された書き下ろし論考である.宮古島で触れた「カンダーリ(神垂り,神祟り)」と呼ばれる状態,その状態をくぐり抜けて「カンカカリャ(神懸かった人)」という社会的役割を担うようになった人たちは,著者にこれまでの活動と思考の全面的な見直し,さらには精神病理学の問い直しを迫った.
1980年の『DSM(精神疾患の分類と診断の手引き)』の登場を受け,WHOによる「ICD-10(精神と行動の障害)」が臨床現場を覆って以来,心の病は「機能障害」としてコード数字で分類されるようになった.以前の診断は「従来診断」と呼ばれて顧みられず,狂気を思考する機会はもはや皆無である.精神病理学が「古典化」はおろか「廃墟」になる暇すらなく消滅しつつある都市部の臨床現場から移った沖縄・宮古島で出会ったカンカカリャは,その分類を凌駕する体験を著者にもたらした.
「分類」とは,生命と直に向き合わずに媒介(言語)によって捉えることである.しかし,カンダーリに陥った者は,何ものにも媒介されない何かを示唆する.著者はその直接性を〈動物性〉と呼ぶ.媒介による思考は,それゆえ〈反・動物性〉だが,これは否定されるべきではない.なぜなら,〈反・動物性〉は人間の証であり,それが文明や社会という「企て」を可能にするからである.
人間は〈動物性〉には戻れない.だから,カンダーリがかいま見せる直接性は,〈反・反・動物性〉と呼ばねばならない.著者は,カンダーリの体験を経たあとも「企て」の産物である社会で生活し,人々の苦しみのために能力を使うカンカカリャが〈反・反・動物性〉を体現していることに気づく.そして,〈反・反・動物性〉の記述に挑んだ結果,カンダーリを支配する特異な時間性を見出した.著者が池間島の祝祭「ユークイ(豊かで幸福な世を・乞う)」で経験したカンダーリの時間〈祝祭性の伝統〉は,社会の中で経験される「企て」の時間の中では瞬間にしか見えない.祝祭のただなかでわずかに感知されるその時間の刹那に,カンカカリャは「企て」によって脅かされる〈祝祭性の伝統〉を救出する.
「「企て」の領域でない場所など,もうこの惑星のどこにもない」(本書200-201頁).それは帰るべき「故郷」としての〈動物性〉はないということである.人間は〈反・動物〉であるからこそ社会という「企て」を実現し,その「企て」の時間として歴史を織りなしてきた.しかし,その「企て」が人間を苦しめている.苦しみは効率的に「分類」されて治療されている.その現状を黙認せずにいるのなら,「企て」を切断しなければならない.しかし,と著者は言う.「「切断」すべきは「生産労働の歴史」という「企て」の持続なのだが,この「切断」を乱暴に実行してしまうと,われわれの生活も生存も破綻してしまう」(本書209頁).だから,「企て」によって「企て」を切断すると同時に持続させること.矛盾して見えるそのふるまいは,〈反・反・動物性〉への「故郷なき郷愁」を抱き,その「ゆくえ」をたどることである.著者が挑む精神病理学の再生は,「企て」から成る地球を救出する「企て」でもある.
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著者の思考とは関係ないのかもしれないが、
思い出したのは、ケン・ウィルバーのプレとトランスの錯誤である。
動物性がプレ、
反・反・動物性がトランスである。
ケン・ウィルバーが超越者を語るとき、また、超越的意識を語るとき、
それを近代知性は、プレとトランスの錯誤の中で、
また「あの話か」と捨て去る。
反・反・動物性は結局のところ動物性かといえば、そうではないのであって、
一度、反・動物性を経由して、乗り越えて、
反・反・動物性に至っているのである。
プレから近代知性に至り、そこからトランスに踏み出す。
その運動を理解したい。
DSMは近代知性が精神病に挑む、始まりの一段階であり、しばらく見守ろうではないか。
そして、先行する者は、早くトランスに至ればよいのだ。