ある人の感想
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私が、感じるこの「世界」は、知識で得たこの「世界」とは、ちょっと違う。
私は、そこにあるものを、ただ、そのものとして、感じる、のみである。
そこに言葉なんて、ない。
ただ、目の前のものを、言葉などで括らず、既成の意味も与えずに、そのまま、感じるままに受け取る。
そこに喜びがある。
私は、私が感じるままに、私が意味を与え、私が名前を付ける。
言葉は、ない。
私が感じる世界では、音と色と模様とリズムと、流れるような音階があるだけ。
細かい粒子のような粒が構成する、世界に、ただ、浸るだけ。
私にとって、本来の言葉は、ただ、音として存在する。
言葉よりも、音の響きの方が、よっぽど意味がある。
そしてまた、その感覚の世界に、私というものは存在しない。
他人も存在しない。
誰も居ない。
ただ、流れていくような色とりどりの美しい世界があるだけ。
素晴らしい旋律が流れるだけ。
私はその中に溶け込む。
そこでは、既成の「言葉」や「意味」はないのだ。
でも、この世界に住んでいたら、「現実」といわれているものに対応出来ないと知識として分かっているので、私は普段この世界を封印して、身に付けた社会的な「自分」というもので、生きている。
その「自分」は、自分だとは分かっているんだけど、本来の意味での自分、ともいえない感じもある。
ただ、嫌いじゃないし、社会に応対出来るから助かっているし、たまに自動運転モードで色々な雑用も片付けてくれる。
社会的な「自分」は、不器用だったり、色々な思い込みや、強迫観念なども持っていて、厄介な面もあるけれど、向上心も持っているので、学習も出来るし、成長も出来る。
そして、現実社会に対応しながら、私は、ひっそりと自分の中の感覚の世界に浸るのだ。
そこには、いつでも至福の喜びがあり、そここそが、私にとっての本当の現実だから。
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発達障害の診断は受けましたけど、発達障害にも精神疾患にも、偏見やこだわりはなく、
診断名はどうであろうと、自分の状況の説明と対処法などが分かれば、有り難いし、それで良いと思っています
感じていないのか、感じているのだけれど話す程の話題ではないと思っているのか、
言葉に出来ないだけなのか、まったくもって謎なのです。
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書くことに慣れてくると書く内容を頭の中で推敲するようになる。
私は、少し推敲をした後、頭の中に寝かしといて、あとは勝手に頭の中で出来たものをそのまま自動筆記みたいにして書いている。
(今まで学習して蓄積された言葉や文章が当てはめられて、作られているのだと思う。)
推敲する間、頭の中は言葉で溢れる。
言葉、言葉、言葉の渦だ。
そうしているうちに、ふと感覚の世界が遠退くことに気が付いた。
頭が言葉で溢れている(言葉で思考している)と、感覚の世界が感じにくくなるのだ。
私が感じている感覚は、元々言葉とは無縁の世界だ。
言葉の世界と感覚の世界は、平行した世界なのである。
(感覚の世界では、言葉が本来持っている意味は無くなり、音の響きに意味があるようになる。)
感覚の世界は、具体的であり、生々しいリアルな世界だ。
私は、事物から生き生きとした直接的なサインを感じ取る。
それは、とても喜びに満ちた素晴らしい世界だ。
一方、私は平均並の知能も持ち合わせているので、知識として、頭の中で言葉を使って世界を概念として捉えることも出来る。
こちらは、私にとって現実感のない、実に味気ない世界だ。
理屈では理解出来るが、感覚的には、違和感があるし、皆がこの概念でのみ生きているのが不思議でならない。
私から見ると、世界は、とても美しい調和で成り立っている。
事物は流動的に動き、その流れは心地良い旋律となる。
世界は、色と音とリズムと点や模様で溢れている。
パターン化された模様は、素晴らしく美しい。
それらはダイレクトに私の中に流れ込んできて私を圧倒し、私の中はそれらでいっぱいになり、そして私はいなくなる。
視覚、嗅覚、触覚、聴覚などを使って、それらは感じ取ることが出来る。
感覚に意識を集中すれば、そこにはいつでも素晴らしい世界が広がっているのだ。
目の前の何でもない景色は、一枚の素晴らしい絵画となり、一定のリズムや模様は、魂に安らぎや喜びを与えてくれる。
触ったものから、様々な波長を感じたり、何ともいえない世界を垣間見たりする。
発達障害だからこの感覚があるのかは分からないが、もし発達障害で持ち合わせている人がいたら、社会に合わせて押し殺してしまうのはとても惜しいことだと思う。
もし子供のうちに、この世界を否定され、概念化された世界を強制されてしまったら、その子は社会に現実感が持てないまま、辛い気持ちになるんじゃないかな。
でも、この感覚があれば、世界は素晴らしく思えるし、逃げ場にもなる。
私は、この感覚があるお陰で、最も根本的なところにおいて、人生は素晴らしいものと思えるし、存在していることが大いなる喜びとなっているのである。
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とのこと