患者側弁護士を懲戒請求したわけ -堤晴彦・埼玉医大高度救命救急センター教授に聞く
◆堤晴彦・埼玉医大高度救命救急センター教授に聞く
埼玉医科大学総合医療センター高度救命救急センター教授の堤晴彦氏は2009年2月、ある“医療事故”の患者側の代理人として弁護活動を行った弁護士の懲戒請求を行った 。同弁護士所属の弁護士会は2010年3月、当該弁護士に対し、業務停止6カ月の処分を下した。堤氏が懲戒請求を行ったのは、交通事故で病院に搬送され、搬送2日後に死亡 した患者側の代理人弁護士。同弁護士は、医療事故に伴う損害賠償請求を行い、さらに数年後、交通事故の加害者に対しても損害賠償訴訟を起こすことにより、損害賠償金を二重 に受領したことに関与したことが懲戒処分の理由だ。
「弁護士の行為を問題視するとともに、弁護士会の懲戒処分制度がどのように機能しているのかを自らの目で確かめたかった」と語る堤氏に、事の経緯をお聞きした(2010年 5月20日にインタビュー)。
Vol.1◆患者側弁護士を懲戒請求したわけ
医療事故への対応を問題視、懲戒処分制度の検証が目的
――なぜ懲戒処分を請求したのでしょうか。
現在、医療事故が社会問題化しています。患者・遺族側は、医療界に、「逃げない、隠さない、ごまかさない」ことを求める。この要望に対し、医療界も、事故調査を適切に行 い、患者側に誠実に対応するように日々努力を続けていますが、医療側が誠実に対応した時には、患者側もこれに真摯に応えるという関係が構築されないと、うまく機能しないで しょう。私が懲戒請求した弁護士(以下、A弁護士とする)の行為は、今まさに変わろうと努力している医療側の姿勢を踏みにじる行為です。一方で、“正義”を振りかざしなが ら、裏でこのような卑しい対応をする患者側弁護士を、医療側は断じて許すことはできない、というのが率直な気持ちです。
また医療事故の調査に当たっては、院内での調査に加えて、第三者による“医療事故調”の必要性が指摘され、ここ数年、議論が進められています。その際に求められるのが、 公平性・公正性・中立性、さらには迅速性・透明性などを担保するための仕組みづくり。議論の過程では、法曹界から、「弁護士会には全員加入の自律的な処分制度があるが、医 療界にはそうした仕組みがない」という指摘がなされることもあります。
では、実際には弁護士会の懲戒処分制度がどんな制度なのか、どれほどの調査能力を持ち、どの程度公平・公正・中立の立場で判断できるのか。
今回、懲戒請求したA弁護士の対応は、社会的に許されるものではなかった。その上、法的にも、また弁護士の倫理的にも問題があった。こうしたA弁護士の個人的問題に加え て、懲戒処分制度をはじめ、弁護士会という組織運営のあり方を、この懲戒請求を通して自らの眼で確認することが目的でした。
結論から言えば、あくまで一事例の経験ですが、弁護士会の懲戒処分制度は、医療界が手本とすべきものではないという印象を強く持ちました。透明性の観点からは、懲戒請求 者である私には、弁護士会の委員会においていかなる議論が交わされたのか、全く分からない不透明なものにしか見えませんでした。また、迅速性の観点からも、適正とは言えな いでしょう。さらには、調査の範囲に関しても、非常に限定的で、弁護士会の綱紀委員会、懲戒委員会ともA弁護士しか委員会に呼んで話を聞いておりません。
最大の問題点は、再発防止に関しては、何の議論もされていない点です。そもそも、弁護士会には組織として再発防止対策を考えるという精神そのものが欠如しているのではな いでしょうか。懲戒請求書の中で私が弁護士会に指摘したことは、交通事故と医療事故が同一事例で起きた時、各々の損害賠償請求を別々に独立して行うと、今回の場合と同様に 、損害賠償金の二重請求が“論理的”に可能であるという問題提起でした。そして、このような事例は、これまでにも実際に起きているのではないか、という疑いが強くあるので す。
医療界においては、医療事故の原因を究明し、再発防止策を講ずるべく努力を始めております。そして、少しづつではありますが、組織として将来に向けた再発防止・安全対策 への取り組みが行われつつあるところであります。
これに対して、弁護士会の動きはどうでしょうか。今回、私は、弁護士会に対して行った懲戒請求に関連した一連の文書のやりとりの中で、弁護士会が自立的、自律的に、再発 防止策を講じることはないと判断した次第です。
さらに問題提起をするため、今年3月に詐欺罪でこのA弁護士を刑事告発しています。
――問題となったのは、どんな事案だったのでしょうか。
2004年の年末年始期間中のある日の早朝、交通事故があり、加害者と被害者ともに当院に搬送された事案です。加害者は心破裂という重症の外傷でしたが、一命を取り止め ています。被害者は搬送2日後の未明、ある病棟で突然、心肺停止の状態で発見されました。当院では警察に異状死の届け出を行い、司法解剖も行われております。交通事故の被 害者の遺族は、「医療過誤」と断定し、A弁護士を代理人として、当院に損害賠償請求をしてきました。証拠保全のあった時点で、私どもは司法解剖の結果さえ知らされていない 状況で、私どもとしても、訴訟を受けて立つか否かを検討していましたが、患者さんが亡くなったという事実を重く受け止め、裁判で争う道は選択しませんでした。数年後、A弁 護士は、交通事故の加害者に対しても損害賠償請求訴訟を起こしています。つまり、それぞれの損害賠償請求を独立して行い、その結果、被害者側は賠償金を二重に受領しており ます。その両方に関与したA弁護士の行為は明らかに不当であり、弁護士法第57条、第58条に基づき、調査・懲戒処分を求めたわけです。
なお、私は被害者の診療には関与しておりません。したがって、決して私個人の私的感情で懲戒請求したわけはなく、私の個人的利益も目的とはしていません。
Vol.2◆弁護士会懲戒処分制度は改善の余地大
公正・中立性、透明・迅速性に疑問、再発防止体制も欠く
――弁護士会への懲戒請求は、どんな形で進んだのでしょうか。
懲戒請求を行
うに当たり、大学側の了解を得る必要があるとも思いましたが、大学を巻き込むつもりはありませんでしたので、1人の医師として懲戒請求を行いました。私自身 が「懲戒請求書」を書き、手続きもすべて一人で行いました。懲戒請求書を書くに当たっては、もちろん私は一介の医師にすぎず、“捜査権”はありませんので、私の得ている情 報は、極めて限定的なものでした。皆、“守秘義務”があるため、誰も私に情報を提供してくれませんでした。それ故、懲戒請求書を書く時には、事実の部分と推察の部分を明確 に分けて、記載するように心がけました。
うに当たり、大学側の了解を得る必要があるとも思いましたが、大学を巻き込むつもりはありませんでしたので、1人の医師として懲戒請求を行いました。私自身 が「懲戒請求書」を書き、手続きもすべて一人で行いました。懲戒請求書を書くに当たっては、もちろん私は一介の医師にすぎず、“捜査権”はありませんので、私の得ている情 報は、極めて限定的なものでした。皆、“守秘義務”があるため、誰も私に情報を提供してくれませんでした。それ故、懲戒請求書を書く時には、事実の部分と推察の部分を明確 に分けて、記載するように心がけました。
A弁護士の所属する弁護士会に対して請求したのは、2009年2月4日。その後、2月12日に弁護士会から「調査開始通知」、2月24日に被調査人(A弁護士)から「答 弁書」および書面(関係資料のこと)、3月16日に書面(関係資料)がそれぞれ届きました。
しかし、その後は何の音沙汰もなかった。そこで6月28日に、私は「進捗状況」を確認するための文書を弁護士会に送付しています。この3カ月間、「何が行われていたのか 」、私には全く分からなかった。
弁護士会の綱紀委員会による、「調査結果」がまとまったのは7月24日。「医療事故と交通事故の損害賠償請求には重複する部分が認められ、逸失利益は全くの同額である」 などとし、「当院と交通事故の加害者から合計すれば、発生した損害賠償以上の額を受領したと認められる」と判断。その上で、「交通事故加害者との民事裁判の過程で、病院か ら示談金6600万円を受領していることに一切言及しなかった。民事裁判の被告(交通事故の加害者)がそれを知っていれば、9000万円での和解をしなかった。損害の補填 を秘匿したという点で、弁護士の品位を損なうべき非行があったと認められるため、懲戒委員会に審査を求める」と認定しています。
綱紀委員会は、医療事故で言う事故調査委員会に相当します。その結果を受けて処分を決定するのが、懲戒委員会です。懲戒委員会による「議決書」(A弁護士の懲戒処分内容 を記載した文書)が出たのが、2010年3月です。綱紀委員会とほぼ同様の判断であり、「故意に損害賠償額の二重取りを企図したものと批判しなければならない」とし、A弁 護士に対し、「業務停止6カ月」という処分を下しています。
もっとも、この間の約8カ月間もまた、私から進捗状況を問い合わせることはあっても、弁護士会からの連絡等は一切ありませんでした。いつから懲戒委員会の議論が始まった のかなども全く分かりませんでした。さらに、懲戒請求者である私自身が呼ばれることもありませんでした。
――弁護士会の懲戒請求への一連の対応、そして綱紀委員会、懲戒委員会の結果をどう受け止めているのでしょうか。
一言で言えば、「言っていることと、やっていることが違う」。
Vol.3 ◆“事故調”議論の前に弁護士会は隗より始めよ
「医療訴訟専門弁護士制度」の自律的組織新設で質向上を期待
――そのほか、どんな問題があるとお考えでしょうか。
弁護士の処分は、戒告、2年以内の業務停止、退会命令、除名の4段階。処分結果は、日弁連の会報誌『自由と正義』に掲載されますが、その処分内容は極めて簡単な記載にと どまっています。また、処分の結果は、裁判所、検察庁などに通知されますが、戒告は通知されません。弁護士会のホームページなどで年間何件の懲戒請求があり、その結果、ど んな処分がなされているのかなど、統計的なデータは全く掲載されておりません。一方、医師の行政処分の結果は、毎年、厚生労働省が処分結果を実名で公表しています。
さらに交通事故と医療事故が同一事例で起きた場合、それぞれの損害賠償請求を別々に行う時に、各示談書において、「第三者に口外してはいけない」と記載しておけば、守秘 義務ならびに個人情報保護の精神から、今回のケースと同様に、「二重受領」が“論理的”に可能になります。さらに、被害者側が、交通事故に対する損害賠償請求を行う弁護士 と医療事故に対する損害賠償請求を行う弁護士、というように二人の弁護士を別々に代理人として立てるなら、この二重請求は、さらに巧妙になし得ます。仮に、二重請求が発覚 したとしても、遺族側は、「二重請求が法的にできないことは、知らなかった」と陳述すれば、法的には問題があるが、倫理的には許容される範囲内のことになってしまうからで す。多くの一般人は、このような法律の内容まで知らないことは、現実にありますから。
この「二重受領」の再発防止に、弁護士会がどう取り組むかも注目点でしたが、「調査結果」と「議決書」には一切言及はなかった。
もちろん、綱紀委員会や懲戒委員会は過去を振り返り、その責任を追及する場であり、将来に向けた改善策を検討する場でないことは承知しています。では、「二重受領」の再 発を防止する仕組み、法的整備などは、いったいどこで検討するのか。対象となる弁護士の懲戒処分で終わったのでは、教訓を次に生かすことができません。弁護士としての職業 倫理の周知徹底を図るという対策だけでは、医療事故の発生の防止と同様、何も解決しないことは確かでしょう。
さらに付随的なことですが、交通事故の加害者は、業務上過失致死罪で実刑判決を受けています。仮に「医療事故」が死因だった場合、業務上過失致傷害罪に変わる可能性はな かったのでしょうか。両方とも最高刑は同じですが、裁判官の心証に影響したのではないかとも思っています。