【バットマンとジョーカーの関係】 私たちは互いに一緒には生きていけないが、同時にお互いなしでも生きていけないタイプだった。 《妻を殺した男の法廷での証言(1935年 イギリス)》 バットマンとジョーカーは表裏一体の関係にある。彼らは明智小五郎と怪人二十面相、シャーロック・ホームズとモリアーティ教授のように切っても切り離せない関係にある。そのことは、さまざまな場面で何度も語られている。たとえばコミックでは以下のような形で表現されている。 『Batman: Going Sane』…バットマンを撲殺したと思いこんだジョーカーは、精神的ショックのあまり記憶喪失に陥ってしまう。彼はジョー・カールと名乗って普通の生活を始めるが、回復したバットマンの姿を見て、再び元の人格に戻る。 『Batman: Dark Detective』…ジョーカーは自分とバットマンの関係について、「自分は自然の力であり、そこには反作用の力がなければならない。もし俺がバットマンを本当に殺したら、バットマンは完璧な存在ではなくなる。バットマンを殺せないという事実そのものが、俺自身が完璧だということの証明になる」という独特の論理を披露している。 『Superman: Emperor Joker』…超科学パワーを用いて現実世界を改変し皇帝の座に就いたジョーカーだが、バットマンの存在を消滅させることはできない。ジョーカー自身が存在し続けるためには、バットマンの存在が必要不可欠だということが示されている。 「Batman #663」…ジョーカーはバットマンに対し、「俺たち二人は意味のない世界で意味を見つけ出そうとしている。お前が俺を殺せば、お前は俺と同じ存在になる。俺と渡りあえるのはお前だけであり、俺もお前を殺すことはできない」「喜劇が成立するためには、お前のような真面目な役者が必要だ」と語っている。 『Dark Knight Returns』…現役を引退していたバットマンだが、再びビジランテ活動を再開する。それに呼応するようにして、アーカム・アサイラムに収容されていたジョーカーも活動を開始する。 コミックのなかでバットマンとジョーカーの関係を一番象徴的に描いているのは、エルスワールド物の『Batman: Two Faces』だろう。これはスティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』のパロディで、特殊な薬物を飲んで怪力を得たブルースがバットマンになると同時に、殺人鬼ジョーカーという別人格を生み出してしまうというストーリーである。 また、ティム・バートン監督の映画『バットマン』では、ブルースをバットマンへと変えたのはジャック・ネイピアという強盗であり、ジャックがジョーカーへと変貌したのはバットマンのせいだという相互補完的な設定になっている。 一方、『ダークナイト』においても、こうした表裏一体の関係は各所で言及されている。留置場のシーンでは、ジョーカーが「俺たちはどちらもフリークだ。俺はお前を殺したりしない。お前のおかげで俺は完全になれる」と語っており、クライマックスのシーンでも、「お前は正義感のために俺を殺せない。俺もお前を殺すような野暮なまねはしない。これが永遠に続くのさ」と告げている。二人の関係については、ジョーカーのほうが的確な認識を持っているようだ。ちなみに、ペントハウスのパーティーの席上でバットマンとジョーカーが初遭遇する場面で、バットマンはジョーカーに対し「Then you’re going to love me.」という台詞を口にしている。本人は気づいていないだろうが、実に象徴的な言葉である。 さて、バットマンとジョーカーは表裏一体の関係ではあるが、ここにスーパーマンとレックス・ルーサーを加えるとどうなるだろう。それぞれが象徴するものを考えてみると、スーパーマン=正義の顔をした正義、レックス・ルーサー=正義の顔をした悪、バットマン=悪の顔をした正義、ジョーカー=悪の顔をした悪ということになるだろうか。別の言い方をするなら、観念としての絶対善、利己的な正義、懲罰手段としての必要悪、観念としての絶対悪とも言えるだろう。ここにワンダーウーマンを加えるならば、さらに複雑な善悪モデルの構築が可能となる。 現実世界には、さまざまな善と悪があり、さまざまな正義と不正がある。これらの現実はフィクションの世界へと受け渡されて、スーパーヒーローやスーパーヴィランという人格へと変換される。フィクションの世界で表現されているのは、カリカチュアされた現実であり、我々自身の姿に他ならない。結局、バットマンやジョーカーについて考えるということは、我々自身について考えるということと同義なのである。 【デントの希望】 希望とは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。 《魯迅》 『JLA/Spectre: Soul War』(2003)という作品がある。トランスという精神寄生体が地球侵略を目論み、JLAとスペクター(ハル・ジョーダン)が協力して立ち向かうというストーリーである。ハル・ジョーダンについて少し説明しておくと、空軍のテストパイロットだった彼は銀河警察「グリーンランタン隊」の一員に選ばれた後、恐怖を具現化した太古の生命体パララックスに憑依されて他のメンバーを皆殺しにし、死後は復讐の精霊スペクターへと転生し、再びグリーンランタンとして復活するという波乱万丈の人生を送っている人物である。ハルは“恐れを知らぬ男”として有名であり、相手に恐怖を与えることを自らのアイデンティティとしているバットマンとは基本的に仲が良くない。 さて、『JLA/Spectre: Soul War』のラストで、バットマンはハルに向かって次のようなことを語っている。「君はヒーローのなかでも一番明るい存在だった。君がパララックスに憑依されて悪の道に走った時、私は大きなショックを受けた。君のような清く正しい心の持ち主でも堕落するというのなら、我々凡人にはもはや希望などないと思った。だが、今わかった。君がスペクターとして転生したのは、我々に希望を与えるためなのだと」 この作品におけるハルは、『ダークナイト』におけるデントと同じ意味を持っている。「光の騎士(White Knight)」と呼ばれたデントは地方判事として、ゴッサムシティを食い物にするマフィアと戦っている。デントはブルースとの会食の場面で、「英雄として死ぬか、生きながらえて悪に染まるか」と述べるが、その予言めいた台詞は後に現実のものとなる。ジョーカーに目をつけられた彼は恋人レイチェルを失い、自らも傷を負う。ジョーカーの甘言により自我崩壊をおこしたデントはトゥーフェイスへと変貌し、復讐のため、警官を含む複数の人間(映画では5人となっている)を殺害する。映画のラストでデントは死を迎えるが、バットマンとゴードン本部長は彼が殺人を犯したことを秘密にしようとする。その目的は、ゴッサムシティの市民に希望を与え続けるためである。 デントの人生は、インド独立に尽力したガンジーや黒人差別撤廃を訴えたキング牧師とも相通じるところがある。ガンジーとキング牧師は、二人とも非暴力主義者で、暗殺によって命を落とした。しかし、彼らが残したメッセージは色あせるどころか、より一層人々の心に刻みこまれることになった。 デントの死は殉教者の死である。人々の心から希望を失わせないためには、デントは善人として死ななければならなかった。だからこそ、バットマンとゴードン本部長は悪人トゥーフェイスの死を、善人デントの死として偽装することに決めたのだ。人々は亡くなったデントの偉業を称え、彼の遺志を継ごうとするだろう。たとえそれが偽りと誤解に基づくものであったとしても、結果として市民を安心させ、ゴッサムシティの治安を保つことに役立つのなら、「嘘も方便」として認めざるを得ないと判断したのだろう。 ギリシア神話に「パンドラの箱」というエピソードがある。英雄プロメテウス(「前に考える」という意味)が天上の火を盗んで人間に与える。最高神ゼウスは人間を罰するため、パンドラ(「全ての贈り物」の意)という女性に、他の神々からの贈り物がつまった箱を持たせて人間界に送りこむ。プロメテウスの弟のエピメテウス(「後で考える」の意)はパンドラと結婚し、パンドラは決して開けてはいけないと言われていた箱を開けてしまう。箱のなかからは病気や災害が飛び出して世界中に飛び散っていく。これにより、人間はさまざまな災いに苦しめられることになった。しかし、箱の底にはただ一つ「希望」だけが残っていた…。 一般的には、希望があるおかげで人間は生きていけるという好意的な解釈がなされているようだが、哲学者のニーチェは逆説的な意見を述べている。ニーチェは『人間的な、あまりに人間的な』のなかで、「パンドラが箱を開けた時、最後に希望が残ったが、これこそ禍のなかでもっとも悪しきものである。希望は人間の苦痛を引き延ばすからである」と語っている。 人は希望があるからこそ生きていける。しかし、希望とは未来の理想形のことであって、現在の苦境を直接的に改善するものではない。希望を持つということは、現在を耐え忍ぶということでもある。それが実現困難な希望である場合は特にそうである。すなわち、希望とは両刃の剣である。人を勇気づけることもあれば、人を失意の底に突き落とす可能性も秘めている。 『ダークナイト』でバットマンとゴードン本部長が人々に与えた希望は、偽装工作によって作り出された偽りの希望である。彼らの嘘が暴かれたなら、ジョーカーの目論見通り、“人々の精神は完全に破壊される”だろう。これは危険な賭けである。偽りの希望によって作られた偽りの平和。彼らの選択は本当に“正しい”ものだったのか。その答えはゴッサムシティの闇に包まれたままである。 【レイチェルの愛】 人生のあらゆる矛盾を解くものは愛である。 《トルストイ》 『ダークナイト』のなかで、レイチェルはどんな意味を持っていたのだろう。答えは簡単。意味などない。 この映画のなかでレイチェルは「愛」を象徴している。愛というのは現実世界においてもフィクションの世界においても、大きな役割を果たしている力である。人は愛によって癒され、愛によって幸福を手に入れる。しかし、『ダークナイト』におけるレイチェルの存在は、悲しいほどに何の意味も持っていない。 ブルースとデントの間を揺れ動くレイチェルは、最終的にデントを選ぶ決断を下すが、その直後、あっけなく死を迎える。レイチェルの死は、愛という力ではブルースやデント(そしてゴッサムシティ)を救えないことを象徴している。いや、むしろ愛による救済を積極的に拒否しているようなところがある。「愛は地球を救う」かもしれない。しかし、愛はゴッサムシティを救うことはできない。 映画の序盤で、ジョーカーがバットマンに正体を明かすように要求し、バットマンの格好をしてビジランテ活動をしていた若者ブライアンを殺害する場面がある。その後、ブルースは「これからはデントのような正義が必要だ」と考え、バットマンの引退を決意する。しかし、彼が自分の存在意義について深く悩むのは、レイチェルが死んだ後である。椅子に深く沈みこんだブルースがアルフレッドに対し「レイチェルが死んだのは私のせいなのか?」と問いかけるのは、あくまでもレイチェルが死んだ後である。少なくともブライアンが殺された時に深く悩んでいるような場面は描かれていない。 要するに、親しい人間が傷ついてはじめてその痛みに気づいたということなのだろう。ブライアンが殺されたのはかわいそうだが自業自得であり、彼の「自己責任」だと割り切っていたのかもしれない。そして、愛する人を失った時にはじめて、自分の行動にともなう責任の重さを実感したのだろう。 2004年にイラクで日本人人質事件が発生した時[*10]、世間には「自己責任」という奇妙な論理がまかり通っていた。ここで言う自己責任とは「殺されても仕方がない」と同義語である。一方では「人間の命は星よりも重い」と言いながら、一方では「自己責任」という人命軽視の論理がまかり通る。残念ながら、この矛盾を解決する決定的な方法を我々は持っていない。 先ほどレイチェルという存在は何の意味も持っていないと書いたが、実は一つだけ意味がある。それはブルースを成長させるということである。映画やドラマなどでは、あるキャラクター(主人公)を精神的に成長させるために、別のキャラクターを殺すことがある。この場合、殺されるキャラは主人公を成長させるためだけに存在しているのであり、それ以外の存在意義はないに等しい。マンネリ化したシリーズ物に活気を与えるために、脚本家がよく使う手である。こうした傾向を、グリーンゴブリンに殺されたスパイダーマンの恋人グウェン・ステーシーにちなんで、グウェン・ステーシー・シンドロームと呼ぶこともある。 「Green Lantern #54」(1994)で、主人公のカイル・レイナーが冷蔵庫のなかで恋人のアレックスのバラバラ死体を発見するというショッキングな場面がある(アメコミ史上でも、もっともグロテスクな場面の一つである)。脚本家のゲイル・シモーヌは、アメコミのなかで男性キャラクターを成長させるために女性キャラクターが“殺されたり、手足を切られたり、力を失ったり”する場合が多いことを憂慮し、「Women in Refrigerators」というサイトを立ち上げた[*11]。このサイトでは、脚本家の安易な女性蔑視思想により傷つけられた女性キャラクターの一覧を公開している。『Batman: the Killing Joke』で下半身不随となったバーバラ・ゴードンも、このリストに含まれている。アメコミではないが、『ダークナイト』におけるレイチェルもこの系譜につらなる存在だと言えよう。 【生か死か】 神と悪魔が戦っている。そして、その戦場こそは人間の心なのだ。 《ドストエフスキー》 『ダークナイト』のクライマックスで描かれた二つのフェリーの問題は、実にスリリングなシチュエーションだった。あの状況をふり返ってみよう。 まず、フェリー事件の前段階として、病院爆破事件がある。ウェイン産業の顧問弁護士リースがバットマンの正体を暴露するとテレビで公言する。それを知ったジョーカーは、リースが出演しているテレビ番組に電話をかけて犯行予告をおこなう。「誰かが60分以内にリースを殺さなければ、市内のどこかの病院に仕掛けた爆弾を爆発させる」と。ここで比較されているのは、リース一人の命と、病院に入院している患者やスタッフ数百人の命である。しかも、どちらを選ぶかは市民の手にゆだねられている。この病院爆破事件が一応の解決を見た後、それをさらにスケールアップしたフェリー事件の幕が開く。 ジョーカーはゴッサムシティの支配を宣言。自分のルールが気に入らない者は今すぐ街を出て行くように告げる。ただし、橋やトンネルには爆弾が仕掛けてあることを示唆する。市民はフェリーによる海上移動にたよらざるをえなくなる(※ゴッサムシティは基本的に“河口にできた島”である。こちらのQ1-10を参照)。一方、ゴードン本部長は囚人をゴッサムシティに残しておくのは危険だと判断して、市内の刑務所で服役していた囚人をフェリーに乗せて優先的に退去させようとする。約500人の一般市民を乗せたフェリーと約800人の囚人を乗せたフェリーが出港した直後、両方のフェリーのエンジンが停止し、ジョーカーからの連絡がある。ジョーカーは深夜0時に両方のフェリーを爆破すると予告。ただし、それぞれのフェリーには相手のフェリーの起爆装置があり、起爆スイッチを入れて相手のフェリーを爆破させたほうは助けてやる。誰かが救命ボートで脱出しようとしたら、両方とも即刻爆破する、というもの。 複数の人質が外部から隔離された密室状況(ビル・船・飛行機)に閉じこめられるというのは、サスペンス映画などでもしばしば登場するシチュエーションである。『ダイ・ハード』『沈黙の戦艦』『ザ・ロック』などがそうである。こうした作品においては、主人公が危機的状況に自ら飛びこんで人質を救出するというのが定番であり、観客は自分と主人公を重ね合わせる(同一化する)ことによってカタルシスを味わうことができる。 しかし、『ダークナイト』では、そうした定石を否定する。二つの密室を作り出し、人質の運命をヒーローではなく人質自身に決めさせるという状況を作り出すことにより、観客はヒーローではなく人質と自分を同一化させて観る羽目になり、カタルシスどころか不安をかきたてられることになる。実にうまい演出である。 「どちらの命を選ぶのか」という“究極の選択”形式のモラル問題は、倫理学の世界で提唱されている。いくつか紹介してみよう。 《カルネアデスの板》 船が難破し、乗組員が海に投げ出される。一人の男が浮いていた板切れにつかまるが、別の男も同じ板切れにつかまろうとする。板切れには二人分の重量を支えるだけの浮力はなく、このままでは二人とも死亡すると考えた最初の男は、自分の身を守るために、後から来た男を突き飛ばして溺れさせてしまう。この男の行為は殺人だろうか?(※日本の場合、刑法三十七条の「緊急避難」に該当するため、男が殺人罪に問われることはない) 《トロッコ問題》 一台のトロッコが暴走している。このまま進めば、線路A上にいる5人の人間に激突して即死させることは間違いない。一方、別の線路Bには1人の人間が立っている。あなたは線路の分岐点に立っていて、トロッコの進む軌道を変えることができる。あなたが大声を出しても彼らに届くことはない。あなたが何もしなければ5人が死ぬ。軌道を変更させれば犠牲者は1人で済む。さて、どうする?(※トロッコ問題はさまざまなバリエーションがある) 《ザ・バイオリニスト》 世界的に有名なバイオリン奏者が致命的な病気にかかり昏睡状態に陥る。ただし、一つだけ治療法がある。それはあなたとバイオリン奏者の肉体を九ヶ月間接続することであり、それは世界でもあなた一人にしかできないことである。ある日、バイオリン奏者の熱烈なファンが眠っているあなたを誘拐し、強制的にバイオリン奏者の肉体と接続してしまう。気がついたあなたは接続をほどこうとするが、そうするとバイオリン奏者が死ぬことになると告げられる。さて、どうする?(※これは中絶問題の比喩である。あなた=妊婦がバイオリン奏者=胎児の生死の判断を下す資格があるかどうかということ) 《臓器くじ》 公平なくじを使って一人の健康な人間を選んで殺す。その臓器をすべて摘出して、臓器移植が必要な患者に移植する。くじに当たった不幸な人間は死ぬが、それによって他の複数の人間が生存可能となる。これは倫理的に許される行為だろうか? これらは倫理学上の思考実験だが、フィクションの世界にも“究極の選択”をテーマにした作品は数多く存在する。一番わかりやすいのは、「タイムマシンで過去の世界に戻り、少年時代のヒトラーを殺すことは許されるか?」というものだろう(ここでは、ヒトラーを殺すことで歴史が変わり、自分が生まれなくなるとかタイムマシンが発明されなくなるといったタイム・パラドックスは無視する)。映画『タイムコップ2』では、ヒトラーを殺そうとした時間旅行者を射殺した時間警察官が、自分の行為に悩む場面がある。また、コメディ映画『最後の晩餐 平和主義者の連続殺人』でも、登場人物がこのテーマについて議論を交わす場面がある。アメコミの世界でも「Fantastic Four #291-292」において、過去の世界に戻ったニック・フューリーがヒトラーを殺そうとするエピソードがある。具体的な作品名は思い出せないが、これをテーマにした短編小説もあったと記憶している。 「Superman #171」では、スーパーマンが“究極の選択”を迫られている。ロックとソーバンという異星人が「スーパーマンは人を殺すかどうか」で賭けをすることになる。ロックは惑星を破壊できるパワーを持っていることを示したうえで、スーパーマンに対し「24時間以内に誰かを殺せ。もし殺さなければ地球を破壊する」と通告する。スーパーマンはクリプトナイトを使って自殺を試みるが、異星人に阻止される。思い悩んだ挙げ句、怒りに我を忘れたスーパーマンはロックを殺そうとする。 「Fantastic Four #242」では、マンハッタン島の住民を人質にした異星人テラックスが、ファンタスティック・フォーに対し「ギャラクタスを殺せ。さもなければ人質の命はない」と要求を突きつけている。 最近では『ぼくらの』という作品が“究極の選択”をうまく表現している[*12]。これは中学生が巨大ロボットに乗って「敵」と戦うというストーリーだが、「敵」となるのは平行宇宙の地球人であり、相手が勝てば自分たちの地球が消滅、自分たちが勝てば相手の地球が消滅、しかも、たとえ勝利してもロボットの操縦者は死ななければならないという残酷なルールまでついている。こういう設定は、生命倫理を扱った作品のなかでもユニークなものだろう。 これ以外にも、漫画好きなら浦沢直樹の『MONSTER』を思い浮かべるだろうし、SFファンなら『冷たい方程式』や『たったひとつの冴えたやりかた』の名前を挙げるだろう。いずれも生命倫理を扱った名作・秀作であり、一読する価値はあると思う。 さて、フェリーの問題に戻ろう。映画では次のような展開を迎える。一般市民が乗ったフェリーでは、“民主的”な方法として、相手の船を爆破するかどうか投票をおこなうことにする。その結果は賛成340、反対196というもの。しかし、船長は起爆スイッチを押すのをためらう。見かねたビジネスマンが「それなら私がスイッチを押そう」と立候補するが、結局スイッチを押すことはできない。一方、囚人を乗せたフェリーでは、刺青をした不敵な面構えの囚人が船長に詰め寄り、「起爆スイッチを渡せ。お前が10分前にやるべきだったことを俺が代わりにやってやる」と告げ、船長から起爆スイッチを受け取ると、それを船の外へと投げ捨てる。 きわめて性善説的な演出ではあるが、彼らが出した答えの是非は誰にも判断できまい。そもそも絶対に正しい答えなど存在しない。ビジネスマンの行動は責任の拒否であり、囚人の行動は責任の放棄である。自らの運命を神の手にゆだねた宗教的な決断だと見ることもできるし、ガンジーやキング牧師に代表されるような非暴力主義にもとづいた決断だと見ることもできる。いずれにしても消極的な決断であることに変わりはない。 しかし、結果としてこれが彼らの命を救うことになる。深夜0時を過ぎても、どちらのフェリーも爆発しないことを知ったジョーカーの顔からは笑みが消える。まさにその瞬間、ジョーカーの「悪意」はゴッサムシティの市民の「決断」の前に敗北を喫する。実はこうした「消極的な決断」あるいは「悪に対する拒否」こそが、現代社会を生きる我々にとって重要な視点なのかもしれない。人が積極的に善行をなそうとする場合、それは時として正義の押し売りであったり、(違法行為をはたらくバットマンのように)他の人間にとっての悪となってしまうことがある。しかし、「正しいことをしよう」と積極的に考えるのではなく、「悪いことをしないようにしよう」と反転的に考えれば、独善的な正義に走ることもなく、反モラル的な悪に染まることもないだろう。 近年、犯罪事件に巻きこまれた被害者のことを「victim」ではなく、「survivor」と呼ぶことがある。犯罪に巻きこまれ傷ついた弱者という観点ではなく、悲惨な事件を乗り越え今後の人生を歩む生還者という観点から、被害者をとらえた言葉である。アメリカ同時多発テロ事件やモスクワ劇場占拠事件など、現実におきた悲惨な事件に巻きこまれた人々はたしかに被害者ではあるが、それと同時に、これからを生きる生還者でもある。『ダークナイト』でフェリーに乗っていた市民や囚人も生還者であり、彼らと自分を同一視していた我々観客も間接的な生還者である。フェリーに乗っていた500人の市民と800人の囚人は、あの事件の後、何を考え、どのような人生を歩んだのだろうか。彼ら生還者の人生のドラマにも興味をそそられるところである。 【命の重さ】 他人の苦しみが分からない者は、人間の名に値しない。 《サーディ(ペルシャの詩人 国連本部の門に刻まれた詩の一節)》 フェリー問題について、いろいろなバリエーションを考えてみよう。たとえば以下のような状況だったとしたら、どういう判断が下されたであろうか。・片方のフェリーに乗っているのが100人の政治家で、もう片方のフェリーに乗っているのが300人の囚人だった場合 (政治家のほうが人間としての価値が高い?)・1人の大統領と300人のホームレスだった場合 (大統領のほうが社会的価値が高い?)・100人の金持ちと100人の一般市民だった場合 (金持ちのほうが人間としての価値が高い?)・100人の金持ちと300人の孤児だった場合 (金持ちのほうが社会的な価値が高い?)・100人の兵士と100人の一般市民だった場合 (兵士は国民のために命を捨てるのが当然?)・100人のアメリカ兵士と100人のイラク兵士だった場合 (イラク兵士は「敵」だから死んでもかまわない?)・100人の健常者と200人の末期患者だった場合 (末期患者はいずれ死ぬのだから別にかまわない?)・100人の子供と200人の老人だった場合 (老人は十分生きたのだから、未来のある子供を生かすべき?)・100人の大人と100人の赤ん坊だった場合 (2008年4月、瀬尾佳美という青山学院大学の准教授が光市母子殺害事件に関して、「赤ん坊は0.5人分の価値しかない」とブログで発言して世間の非難を浴びたが[*13]、こういう奇妙な価値観の持ち主は赤ん坊を殺すほうを選ぶのか?)・100人の人間と300匹の猫だった場合 (2006年8月、直木賞作家の坂東眞砂子が日経新聞のコラムのなかで、独特の自論に基づいて子猫を殺していることを告白して動物愛護家の批判を浴びたが[*14]、こういう歪んだ価値観の持ち主はためらうことなく猫を殺すほうを選ぶのだろう)・100人の人間と1000匹のペット(犬・猫)だった場合 (ペットは家族同然なのだから、人間よりもペットを生かすのが正しい?)・500人の人間と500頭のジャイアントパンダ(絶滅危惧種)だった場合 (1995年、中国で実際におきた事件だが、4人の農民が3頭のパンダを殺し、その皮をはいで香港で売りさばこうとした罪で逮捕された。中国の警察当局は主犯格だった2人に対し死刑判決を下した[*15]) これらの思考実験には、唯一絶対の正解などない。全てはグレーゾーンのなかにある。ただ、自分の内的モラルがどこにあり、それは何を根拠にしたものなのかを考えておくことは、とても大切なことだと思う。 【ビジランテの現状】 暴力がもたらすものは、一時的な勝利にすぎない。暴力は問題を解決するどころか、さらに多くの問題を作り出し、恒久的な平和をもたらすことはない。 《キング牧師》 ビジランテ(vigilante)とはスペイン語で「見張る者(watchman)」を意味する。日本語では自警団員と訳されている。日本では、ビジランテやビジランティズムというのは耳慣れない言葉だが、その概念自体は決して新奇なものではない。ビジランテとは、警察や司法システムでは裁くことのできない悪人を、正当な手続きを経ることなく、自らの意思に基づいて処罰する個人もしくは集団のことである。人を殺すこともあれば殺さないこともある。報酬を受け取ることもあれば受け取らないこともある(前者の場合は暗殺者や用心棒に近い存在となる)。いわゆるアンチヒーローやダークヒーローとも重なる部分があるが、それらとは微妙に異なる。実例を挙げれば、漫画『マーダーライセンス牙』『ブラック・エンジェルズ』や、テレビドラマ『ザ・ハングマン』『必殺仕事人』などがビジランテに当たるだろう。 ビジランテの起源は古く、中世イングランドにいたとされる義賊ロビン・フッドもビジランテの一人とみなされている。アメリカにおけるビジランティズムは16~17 世紀の西部開拓・植民地時代に誕生したらしい。「自分の身は自分で守る」という発想がビジランティズムという行動へと発展したようだ。さらに言えば、こうした発想が現在の銃社会を築く一因になったとも言えるだろう。 アメリカには、ビジランテの姿を描いたフィクションが数多く存在する。アメコミに登場するヒーローのほとんどはビジランテであり、映画『パニッシャー』『狼よさらば』『ストライク・ダウン』『ブレイブ ワン』、テレビドラマ『特攻野郎Aチーム』、パルプ雑誌『ザ・スパイダー』、小説『容赦なく』(トム・クランシー著)などはいずれもビジランテの正義を描いたものである。 問題は、ビジランテの主張する“正義”に正当性があるかどうかである。白人至上主義で知られる悪名高きクー・クラックス・クランや、日本の調査捕鯨船に妨害工作をおこなう過激派自然保護団体シー・シェパードなども、ビジランティズムの一形態としてみなされている。つまり、ビジランテとテロリストの違いは紙一重になることもある。 実際におきたビジランテ事件をいくつか紹介してみよう。 「サブウェイ・ビジランテ」…1984年12月、ニューヨークの地下鉄に乗った男性バーナード・ゲッツが、4人の黒人グループから金をせびられ、持っていた拳銃で4人全員を撃つという事件がおきた。当時のニューヨークの地下鉄は治安状態が悪く、一日平均38件もの暴力沙汰がおきていた。この事件は市民に大きな衝撃を与え、バーナードは「サブウェイ・ビジランテ」と呼ばれることになった。バーナードは裁判にかけられるが、刑事裁判では1年間の懲役(執行猶予なし)という判決が下され、民事裁判では怪我を負わせた黒人に対し4300万ドルの慰謝料を支払うように命じられた(実際には払っていない)。 「モンタナ自警委員会」…1863年12月、バージニアシティの近くにある金鉱キャンプ地で、ニコラス・タルボットというドイツ人の他殺死体が発見された。3人の容疑者が逮捕され、そのうちの一人で実行犯とされたジョージが絞首刑に処せられたが、ジョージは死刑執行の直前、自分は無実で真犯人は別の男だと言い残した。この事件の検事だったウィルバー・サンダースは真犯人を見つけだすために、仲間を集めて「モンタナ自警委員会」を結成した。ウィルバーたちはその後の2ヶ月間で22人(そのうちの一人は保安官)をリンチにかけ絞首刑にした。 「ランボーもどき」…2000年、ジョナサン・アイデマという男性がアフガニスタンに入国し、多くのアフガニスタン国民をテロリストとして拘束した。ジョナサンはアメリカ合衆国の認可を受けていると自称していたが、2004年に逮捕され、10年間の懲役刑を受けたが、2007年に恩赦された。 「北アイルランドの自警団」…北アイルランドで、刑務所から早期出所した小児性愛者が、黒衣の集団に拉致された。彼はナイフで刺され、獰猛な大型犬と一緒の車に閉じ込められ、犬にさんざん噛まれた後、道端に捨てられたものの、一命はとりとめた。 「ビジランテ3人組」…2003年7月、少女に性的暴行を加えたとの噂があるマシュー・マレーが、3人の男性に襲われて重傷を負った。逮捕された3人の男には、それぞれ懲役12~14年の判決が下された。 「ハンプシャーのパンク魔」…2006年、イギリスのハンプシャー州で、20台以上の車のタイヤが切り裂かれる事件が発生した。現場には一枚のメモが残されており、そこにはこう書かれていた。「警告:お前は運転中に携帯電話を使用していた」(※日本と同じように、イギリスでも運転中の携帯電話の使用は法律で禁止されている)。 「人違い放火」…2007年2月、アンドリュー・テイラーという男が、駐車中の車のなかにいたシェーン・ホイールハウスにガソリンをかけて放火した。シェーンは上半身にひどい火傷を負ったが一命はとりとめた。アンドリューはシェーンのことを麻薬の密売人だと勘違いしたらしい。アンドリューは殺人未遂罪で逮捕され、懲役24年の判決が下された。 「福田村事件」…1923年、関東大震災がおきた直後に、千葉県の自警団員が差別的な感情から行商人を殺害した。 アメリカにおけるビジランティズムとその周辺の現状をもう少しくわしく見てみよう。 1964年3月、ニューヨーク在住のキティ・ジェノヴィーズという女性が自宅アパート前で暴漢に刺殺されるという事件がおこる。この事件が世間の注目を集めたのは、現場付近の住民38人が彼女の悲鳴を聞き、事件を目撃していたにもかかわらず、誰一人として救助に駆けつけることも警察に通報することすらしなかったからである(日本でも、2006年8月に特急電車のトイレ内で女性が強姦されたにもかかわらず、その車両にいた40人の乗客は事件を阻止することも車掌に連絡することもしなかったという電車内強姦事件がおきている[*16]。これらの事件の目撃者の心理は傍観者効果と呼ばれている)。 ジェノヴィーズ事件の後、地元の住民が自警団を結成して、自分たちの近所の犯罪行為に目を光らせるようになった。その後、1972年に国家保安協会(National Sheriffs’ Association)がアメリカ各地の自警団を体系化し、全国規模の近隣監視団(Neighborhood Watch)へと発展していくことになる[*17]。 現在、近隣監視団は大小あわせて7500グループあるのだが、政府はこの数を倍増させるため、200万ドルの予算を投入するそうだ。しかしながら、近隣監視団はビジランテ活動を推奨するものではない。近隣監視団のメンバーが犯罪現場を目撃した場合、すぐさま警察に通報するという規則になっている。 また、アメリカ自由部隊(USA Freedom Corps)という組織もある[*18]。これはアメリカ同時多発テロ事件の直後に設立されたもので、合衆国大統領が委員長の座に就いている。アメリカ自由部隊の目的は、国家保安の理念に基づき、アメリカ国内及び国外におけるさまざまなボランティア活動を推進するというもの。別にテロとの戦いがメインとなっているわけではないが、その活動のなかには“国家にとって危険と思われる人物を見かけたら当局に報告する”というスパイめいた行動も含まれている。似たような組織に市民部隊(Citizen Corps)というのがあり[*19]、これは国土安全保障省(Department of Homeland Security)の管理下にある。 こうした動きは直接的にビジランティズムにつながるものではない。しかし、一旦「我々VS奴ら」という構造ができてしまうと、それは容易に「我々=正義 奴ら=悪」という公式へとすり替わってしまう。50年代の赤狩りのような事態が再現されないという保証はどこにもない。 70年代にデニス・オニールとニール・アダムスはスーパーヒーローコミックというジャンルのなかで、アメリカが抱える社会問題(ドラッグ、人種差別、公害、政治腐敗など)を描いて高い評価を得た[*20]。ここで描かれた問題は21世紀になった今も解決されておらず、むしろ深まったとも言える。世界は今でも人種偏見、宗教対立、経済格差、環境破壊に満ちあふれている。過去には過去の悪徳があり、現代には現代の悪徳がある。では、現代の正義、そして現代のビジランテとはどういう形であるべきなのか。その答えを出すことは容易ではない。 【現代の犯罪】 暴力はむしろ道徳的なものである。それによって我々は48年かかってもできなかったことを、わずか48時間でやってのけたのだ。 《ムッソリーニ》 犯罪研究家のコリン・ウィルソンの著作を読むと、いくつかのキーワードが出てくるが、そのなかに「欲求の階層」「確信人間」という概念がある。 「欲求の階層」とは、もともと心理学者エイブラハム・マズローが提唱した概念である。マズローによると、人間が生存するために絶対に必要なのは「食べ物と飲み水」である。これが不足状態にあると、他のことは何もできない。これが充足されると、人間の欲求は第二階層へと移り、「安全に保護された環境」(暑さ寒さをしのげる家)を求めるようになる。これが充足されると、第三階層「愛、家族、親密な人間関係」へと移る。これも充足されると、第四階層「自尊心」を求めるようになる。そして最終的には、第五階層「自己実現」へと至るとされている。 ウィルソンはこの概念を犯罪の動機と関連づけて説明している。つまり、18世紀以前には人間の生活は楽なものではなく、犯罪のほとんどは「食べ物と飲み水」を巡るものだった。人間は自分が生き延びるために、盗んだり他人を殺したりした。しかし、19世紀の中頃になると文明が発展し、人々は一定水準の生活を送れるようになった。19世紀末になると、基本的な欲求(食べ物と飲み水)による犯罪はほとんど無くなり、それに代わって、切り裂きジャックに代表されるような性犯罪が目立ち始める。さらに、1960年代以降は動機のない殺人事件が発生しているが、これは人間の意識が第四階層「自尊心」の段階にあるからだという。このようにウィルソンは「欲求の階層」と「犯罪の動機」がぴたりと重なるという。日本の犯罪心理学者の影山任佐も、現代の犯罪の特徴は性欲や物欲の「欠乏からの犯罪」ではなく、犯罪行為を通して空虚な自己を埋めようとする「自己確認型犯罪」が増えていると指摘している。 一方、「確信人間(あるいは激発人間)」というのは、『宇宙船ビーグル号』で有名なSF作家A・E・ヴァン・ヴォクトが提示した概念である。これは「自分は常に正しい」という絶対的な信念を持った人間のことである。このタイプの人間は反省するということがなく、自分の間違いを指摘されると激昂する。彼らの頭のなかでは、自分は常に絶対に正しく、間違っているのは常に相手のほうである。しかも、動物行動学の研究により、20人に1人がこうした確信人間のタイプにあてはまるという調査結果もある。 こうしたウィルソンの視点が必ずしも正しいとは断言できないが、かなり説得力があることは確かである。では、実際に現代の犯罪はどのような傾向を示しているのだろうか。 テレビや新聞などのマスコミ報道のなかには、「凶悪犯罪が増加している」とか「少年犯罪が凶悪化している」といった論調で報じられるものも少なくない。しかし、『犯罪白書』などの統計データを見るかぎり、そうした主張を裏づける確固とした事実はないようだ。殺人事件の件数で言うと、ここ10年ほどは平均1300件前後で推移しており、他の諸外国と比較しても殺人事件の発生率は先進国のなかで一番低い。つまり、統計的に見るならば、日本は「安全」な国だということになる。 とは言え、量的な側面ではなく、質的な側面(殺人の動機)には変化があるように思う(これもマスコミの煽り報道による事実誤認かもしれないが)。「いなくなればいいと思った」という短絡的な殺人や、「誰でもよかった」という無差別殺人、さらには「人を殺してみたかった」という純粋殺人[*21]にいたっては通常の感覚では理解不能であろう。 殺人だけではない。児童虐待に動物虐待。食品偽装[*22]にマンション耐震偽装。企業の脱税[*23]に政治家の汚職[*24]。警察官は買春し[*25]、裁判官はストーカー行為を働く。官僚は裏金を作り、マスコミは正義をふりかざして暴走する[*26]。断っておくが、これはゴッサムシティの話ではない。“今ここにある”日本の現実である。悪徳が欲しいのなら、フィクションの世界を探すまでもない。我々の目の前に悪徳は存在しており、我々の心のなかには悪徳の可能性が眠っているのだ。現代は誰もが被害者にも加害者にもなりうる時代である。だが、どちらになるかを選択するのは我々自身だ。 ジョーカーはゴッサムシティの人々を堕落させようとした。では、すでに堕落した人々には何が残されているのだろう? 世界が(そして我々自身が)これ以上「ジョーカー化」しないことを願うばかりである。 【死刑という正義】 殺人という犯罪は、犯罪であるのか否か。もし犯罪でなければ、なぜ犯罪でないものを罰する法律を作るのか。またもし犯罪であるなら、同じ犯罪行為によってそれを罰するのは、何と野蛮にして愚かな矛盾であろうか。 《マルキ・ド・サド『閨房哲学』》 水戸光圀(いわゆる水戸黄門)に、こんな逸話がある。ある時、自分の親を殺した男の裁きをすることになった。男は「あんなろくでなしの親を殺して何が悪い」と開き直る態度を見せる。光圀はすぐに男に処分を下すことなく、まず儒学の教えをほどこすことにする。男は熱心に儒学を学んだ後、「自分のしたことの重大さがよくわかりました。どうか死刑にしてください」と願い出る。光圀は迷いながらも、男の希望通りに死刑を下した。これが実話なのか、後世の人間によって作られた創作なのかは不明だが、殺人と死刑について考えさせられる話ではある。 2008年6月、朝日新聞の夕刊のコラムで、法務大臣の鳩山邦夫を死神呼ばわりした文章が掲載され物議をかもした。刑事訴訟法によると、裁判所が死刑判決を出して、それが確定した場合、6ヶ月以内に刑を執行することが規定されている。死刑を含む現在の司法システムを作ったのは我々国民であり、刑事訴訟法を定めたのも法務大臣の職務内容を決めたのも国民自身である。法務大臣一人を悪者に仕立て上げるような無責任な文章は明らかにおかしい。もし死神と呼ばれるべき人間がいるとしたら、それは現在のシステムを築きあげた国民一人一人であるべきだ。2005年に法務大臣に就任した杉浦正健は、「自らの信念」にもとづいて死刑執行書の署名を拒否したらしいが、彼の行動は国民によって与えられた職責を果たしておらず、単なる職務怠慢にすぎない。そもそも一個人の「信念」で死刑執行の有無が決まるなら、最初から裁判などする必要がない。 2007年8月、愛知県名古屋市で、帰宅途中の女性が闇サイトを通じて知り合った3人の男に拉致され惨殺されるという痛ましい事件(通称闇サイト殺人事件)がおきた。被害者の遺族はホームページのなかで、犯人の極刑を求める署名活動をおこなっている。事件から約1年が経ち、署名者の数は30万に達しようとしている。何の罪もない女性を一方的に殺害した犯人は、文字通り「人間のクズ」である。個人的には拷問を加えてから死刑にすればいいとすら思っている。極刑を求める署名書にサインした30万弱の人々は「死神」と呼ばれるべきなのだろうか。それとも、「正義の執行人」と呼ぶべきなのだろうか? その一方で、「犯人を処罰すること」と「犯人を死刑にすること」を分けて考える人たちもいる。松本サリン事件の被害者である河野義行さんは奥さんが亡くなった後でも、事件の張本人である麻原彰晃に対する死刑を望んでいないという。ごく少数ではあるが、殺人事件の被害者の遺族が加害者と交流を深めるケースもある。 映画『スパイダーマン3』に、こんな場面がある。スパイダーマンことピーター・パーカーは、自分を育ててくれたベンおじさんを殺した真犯人フリント・マルコが刑務所から脱獄したことを知る。復讐心に燃えるピーターは、砂男サンドマンと化したマルコを下水道に追い詰めて倒す。その後、ピーターはメイおばさんに「スパイダーマンがマルコを退治した」ことを報告する。てっきりメイおばさんが喜んでくれるものと思いこんでいたピーターだが、メイおばさんは悲しげな表情を浮かべて、こう語る。「誰が死に値するかしないか、わたしたちにそれを決める資格はないと思うわ。ベンはとても大事な人だったわ。でも、ほんの一秒でも、わたしたちに復讐心など抱いてほしいとは思わなかったでしょう。復讐心は毒と同じ。邪悪で有害なものよ。わたしたちの心を乗っ取って、知らないうちに邪悪で醜いものに変えてしまう」[*27] メイおばさんは死刑反対主義者なのだろう。彼女が求めるものは「正義」であり、「復讐」ではない。だが、その境界線はどこにあるのか。正義を求めるという我々の願望は、基本的に報復の願望である。その二つを区別することは難しい。2009年5月からは裁判員制度がはじまる。人が人を裁くとはどういうことなのか、我々は本当に“正しい”方法で悪人を裁くことができるのか。こうした問いに対する絶対に正しい答えなど、どこにもない。 【終わりに】 堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。 《坂口安吾『堕落論』》 話を映画に戻そう。映画のラストで、ゴードンはこう語っている。「彼はゴッサムにふさわしいヒーローかもしれないが、今のゴッサムが必要としているヒーローではない」 「彼」には夢がある。いつの日かゴッサムシティに平和が訪れ、人々が自分という存在を必要としなくなる日が来ることを願っている。その夢を実現するためなら、彼はどんなことでもする決意を固めている。より大きな正義のためなら、自ら進んで不正に手を染め、暴力的な手段に訴えることも辞さず、殺人者の汚名を着せられることすら厭わない。精神と肉体を極限まで鍛えあげ、恐怖をモチーフとしながらも、絶対に人を殺すことはしない信念の持ち主。清き心を持ちながら、闇の衣に身を包む男。 その男の名は…ダークナイト。 人殺しという汚名を着せられ、警察に追われながらも光に向かって進もうとするその孤独な背中は我々に対してこう語っているかのようだ。 メメント・テネブレ。闇を忘れるな、と。 |
【注釈】 [1] 架空のキャラクター長者番付(2006年度) [2] 小説『マイノリティ・リポート』 DVD『マイノリティ・リポート』 [3] Panopticon [4] 「私は監視されている」:監視社会が生む新しい精神疾患 [5] Original Comics Code [6] 『ヒトは、こんなことで死んでしまうのか』 p109, P116 [7] 『訴えてやる!!! – ちょっとおかしなアメリカ訴訟事例集』 p303 [8] 『Batman: Arkham Asylum 15th Anniversary Edition』 [9] 『Manhunter: Unleashed』 [10] イラク日本人人質事件 [11] Women in Refrigerators公式サイト [12] 漫画『ぼくらの (1)』 小説『ぼくらの~alternative (1)』 DVD『ぼくらの DVD Vol.1』 [13] 参考サイト1 参考サイト2 [14] 参考サイト [15] 『日本の刑罰は重いか軽いか』 p95 [16] 車内レイプしらんぷり 「沈黙」40人乗客の卑劣 [17] Neighborhood Watch公式サイト [18] USA Freedom Corps公式サイト USA Freedom Corps公式サイト(児童向け) [19] Citizen Corps公式サイト [20] 『Green Lantern/Green Arrow vol.1』 『Green Lantern/Green Arrow vol.2』 [21] 『人を殺してみたかった – 17歳の体験殺人!衝撃のルポルタージュ』 [22] 食品偽装 [23] 企業による犯罪事件の一覧 [24] 汚職 [25] 警察不祥事 [26] マスコミ不祥事 [27] 『スパイダーマン3』 p246 |
【主な参考文献・推薦文献】 『The Dark Knight script (pdf file)』 『Batman: the Greatest Stories Ever Told vol.1』 『Batman: the Greatest Stories Ever Told vol.2』 『the Joker: Greatest Stories Ever Told』 『Batman: the Man Who Laughs SC』 『Batman: Lovers and Madmen HC』 『Joker HC』 『Batman: Going Sane』 『Batman: Secrets』 『Batman: the Joker’s Last Laugh』 『Batman and Philosophy: the Dark Knight of the Soul』 Mark D. White & Robert Arp (編) 『Batman Unauthorized: Vigilantes, Jokers, and Heroes in Gotham City』 Dennis O’Neil (編) 『the Psychology of Superheroes: An Unauthorized Exploration』 Robin S. Rosenberg (編) 『Holy Superheroes! Revised and Expanded Edition』 Greg Garrett 『ヒーローと正義』 白倉伸一郎 『正義とは何か? – テレビ・マンガヒーローたちの正義学概論』 『平成19年版 犯罪被害者白書』 内閣府 『現代の犯罪』 作田明 『犯罪心理学 – 犯罪の原因をどこに求めるのか』 大渕憲一 『犯罪被害者の声が聞こえますか (新潮文庫)』 東大作 『なぜ被害者より加害者を助けるのか』 後藤啓二 『話を、聞いてください – 少年犯罪被害当事者手記集』 少年犯罪被害当事者の会 『殺された側の論理 – 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」』 藤井誠二 『少年に奪われた人生 – 犯罪被害者遺族の闘い』 藤井誠二 『少年犯罪被害者遺族 (中公新書ラクレ)』 藤井誠二 『人を殺してみたかった – 17歳の体験殺人!衝撃のルポルタージュ』 藤井誠二 『17歳の殺人者 (朝日文庫)』 藤井誠二 『少年にわが子を殺された親たち (文春文庫)』 黒沼克史 『罪と罰、だが償いはどこに?』 中嶋博行 『そして殺人者は野に放たれる (新潮文庫)』 日垣隆 『狂気という隣人 – 精神科医の現場報告 (新潮文庫)』 岩波明 『自閉症裁判 – レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』 佐藤幹夫 『裁かれた罪 裁けなかった「こころ」 – 17歳の自閉症裁判』 佐藤幹夫 『累犯障害者』 山本譲司 『心にナイフをしのばせて』 奥野修司 『人は何故、人を殺すのか – 若者らの罪悪感、反省心のない「器物破壊化」殺人の実態と背景を探る』 田代則春 『良心をもたない人たち – 25人に1人という恐怖』 マーサ・スタウト 『殺してやる – 止められない本能』 デヴィッド・M・バス 『他人を見下す若者たち』 速水敏彦 『オレ様化する子どもたち』 諏訪哲二 『「心の傷」は言ったもん勝ち (新潮新書)』 中嶋聡 『「私はうつ」と言いたがる人たち (PHP新書)』 香山リカ 『被害者のトラウマとその支援』 藤森和美 『犯罪被害者支援 – アメリカ最前線の支援システム』 新恵里 『犯罪被害の体験をこえて – 生きる意味の再発見』 ハワード・ゼア 『弟を殺した彼と、僕。』 原田正治 『癒しと和解への旅 – 犯罪被害者と死刑囚の家族たち』 坂上香 『いのち・未来へ – 理不尽に命を奪われた人たちからのメッセージ』 「生命のメッセージ展」実行委員会 『STOP!自殺 – 世界と日本の取り組み』 本橋豊 『自殺で遺された人たちのサポートガイド』 アン・スモーリン 『友だちに「死にたい」といわれたとき、きみにできること』 リチャード・E・ネルソン 『コリン・ウィルソンの犯罪コレクション (上)』 コリン・ウィルソン 『コリン・ウィルソンの犯罪コレクション (下)』 コリン・ウィルソン 『世界犯罪史』 コリン・ウィルソン 『凶悪犯罪の歴史! (ぶんか社文庫)』 『20世紀にっぽん殺人事典』 福田洋 『図説 現代殺人事件史 (ふくろうの本)』 福田洋 『新・殺人百科データファイル (別冊歴史読本 6)』 日高恒太朗 『犯罪心理学 (図解雑学)』 細江達郎 『犯罪心理学 (雑学3分間ビジュアル図解シリーズ)』 『犯罪心理が面白いほどわかる本 (絵解き入門書)』 『面白いほどよくわかる犯罪心理学 (学校で教えない教科書)』 高橋良彰 『動物の権利』 ピーター・シンガー 『動物の権利 (1冊でわかる)』 デヴィッド・ドゥグラツィア 『動物の命は人間より軽いのか – 世界最先端の動物保護思想』 マーク・ベコフ 『アニマルウェルフェア – 動物の幸せについての科学と倫理』 佐藤衆介 『隠された風景 – 死の現場を歩く』 福岡賢正 『戦火のバグダッド動物園を救え – 知恵と勇気の復興物語』 ローレンス・アンソニー 『おいしいハンバーガーのこわい話』 エリック・シュローサー 『豚のPちゃんと32人の小学生 – 命の授業900日』 黒田恭史 『「いのち」を食べる私たち – ニワトリを殺して食べる授業』 村井淳志 『なぜウソをついちゃいけないの? – ゴットフリートおじさんの倫理教室』 ライナー・エアリンガー 『虚夢』 薬丸岳 『さまよう刃 (角川文庫)』 東野圭吾 『償い (幻冬舎文庫)』 矢口敦子 『そして粛清の扉を (新潮文庫)』 黒武洋 DVD『十二人の怒れる男』 DVD『ライフ・オブ・デビッド・ゲイル』 DVD『ジョンQ-最後の決断-』 DVD『息子のまなざし』 |