性欲と愛を区別することを考える
愛していることを示すために相手の性欲を満足させることは
とてもよくある行為なのだが
それは単に相手の性欲を利用して愛を証拠立てようとしているだけで
愛ではない
痒いところを掻いてあげて、ありがとうと言われる程度のもので、愛というほどのものではない
愛はどれほど相手を高めてあげられるかなのだから
性欲を満足させることなどは
水が低きに流れるのと同じことでしかなく
愛の名に値しない
逆に自分の性欲を満足させて愛だと思っている例もある
もちろん、そんなものは愛でもなんでもない
明らかに違う
脳の中の愛の回路と性欲の回路は区別されるのだと思い出す
愛のために性欲を利用してはならない
性欲のために愛を利用してもならない
これは個人的な信条だけれど、愛と性欲は全く別の回路なのだ
人によっては区別がないのだろうがそのような人はそのような人で良いのだと思う
相手の性欲回路を利用して自分の愛を証明することなんてできない
自分の性欲回路を利用してそれを愛と言うなんて明らかに間違いだ
むしろ愛は性欲を堰き止めることで証明されるのである
性欲の不自然な停止こそが愛の証明なのだ
性欲の回路を阻止して愛の回路で置き換えることができる
そのようにして人間同士は愛し愛されて上昇する
愛は知性の新たな開通である
愛は感情の新たな開通である
愛は直感のもたらす果実である
愛は不自然な知性と不自然な感情と不自然な直感のもたらすものである
真のものでは全くない
愛が性欲回路を部分回路として持つことは時に許されるが
それは主に満足させることではなくて上昇・昇華させることによる
人間は肉欲に支配される場面がある
私はそれは愛とは呼ばない
それは単に肉欲である
肉体を持つ人間として肉欲は確かに通常のものではあるが
人間は肉欲をそれ以上のものにすることが出来る
肉欲は世俗で言ういけない自分である
ワルイモノである
それは傲慢であり居直りである
いい子のふりをしてきただけだ
弱い自分
自分を裏切る自分
こんなにも人を傷つけて無反省だった自分
漠然とあった万能感も剥奪されて
自分の限界と醜さをつきつけられるとき
そのことを生き尽くした末に
人間はそこから離陸することが出来る
肉欲に居直るのならそれまでの人間である
肉欲を洗練することもできないだろう
肉欲が強い欲動ならばそれをエンジンとして次のレベルに進むことが出来る
離陸するために性欲は強い欲動である必要がある
完全に偉大なものに自分の全てを委ねることが出来るのだ
このレベルになると性欲を形式的に利用しているようで居ながら
全く別の愛の回路を働かせていることが解る
それが愛であるのは無私でありすべて相手のためでありすべては自発的奉仕だからである
そのような境地がただの一瞬ではあるが成立することの不思議を考えている