人は相手の善意ではなく自己愛(セルフ・ラブ)に訴えるのだ
政治経済学の誕生
さらに重要なことは、誰もが自分の保存を第一の目標とする権利があるというこのホッブズの原理は、政治哲学の分野にとどまらず、経済学の分野でも基本的な原理となったのである。資本主義社会の発展とともに、経済というものの考え方が基本的に変化してゆくのである。
経済学(エコノミクス)という語はギリシア語の家政術(オイコノミケー・テクネー)からくる。オイコスは家であり、経済学は家の管理と支配の術の意味だった。家の主人が女たちに手仕事をさせ、奴隷たちに労働させ、家計を管理するための術である。この伝統は中世を通じてそのまま維持された。近代の初頭になっても、経済学は君主の家計の意味からそれほど逸脱していなかった。
それがやがて重商主義の時代になると、君主の家計が国家全体の家計に拡大され、経済学は政治経済学(ポリティカル・エコノミー)と呼ばれるようになる。しかし誕生当初の経済学は、君主が国家を運営するための術という意味をまだ帯びていた。重商主義とは、国家を一つの家計とみなして、収入を増加させ、支出を減少させるという国家の家計の術、国家の富を増大させる術だったのである。
重商主義
家計の収支が主として貨幣の出入りで計算されるように、国家の富も貨幣の増減で計られていた。だから輸出を増大させ、輸入を減少させるならば、国家に残る貨幣の量は増大する。輸出を増大させ、輸入を低減させるには、殖産興業が必要であり、国民が豊かになる必要がある。しかし重商主義の目的は国民そのものであるよりも、国家の備蓄の増大であった。節約することでも、植民することでも、関税をかけることでも、収入は増大させることができるからである。反対に国民がみずからの欲望に忠実で奢侈であり、浪費すると、どれほど生産しても国家は貧乏になると考えられた。
このことを、イギリスの重商主義の理論家のトーマス・マンは次のように説明している。「大いなる配慮と慎重さをもって、常に、輸入し消費する外国商品よりも多くの国内商品を輸出し、……その差額を財宝として国内に持ち帰る」[1]ならば、国は豊かになるだろう。これにたいして「内外の商品を過度に浪費するため、反対の過程が行われるところでは、かかる浪費を賄うために必ず貨幣が輸出されねばならず、かくて人民の生活状態を退廃せしめ、そのため富裕な数多の国が極度に窮乏に陥るのである」[2]。だから「財宝を増大せしめ勤勉とそれを維持する節倹とは、一王国の財宝の真の監視人となる」[3]のである。
スミスと自己愛
この重商主義の経済学を批判し、国家による貿易の管理が無効であり、人々がみずからの欲望にしたがうままにすることが重要であることを訴えたのがアダム・スミスである。まずスミスは国家の富とは輸出と輸入の差額として残る貨幣の量ではないと主張する。「国民の労働によって生まれる生産物によって、国民の生活が豊かになること」こそが重要なのだとかどうかが問題なのだと指摘する。国の豊かさとは、国民全体の豊かさのことなのだ。
スミスはこう語る。「どの国でも、その国の国民が年間に行う労働こそが、生活の必需品として、生活を豊かにする利便品として、国民が年間に消費するもののすべてを生み出す源泉である」[4]。そして「世界のすべての富はもともと、金や銀ではなく、労働によって獲得されている」[5]。だからいかにして国民の生産性を高めるかを目指すべきであり、たんに貿易で差額を獲得することを目指すべきではないのである。
スミスは労働の生産性を向上させるための重要な要素として分業を挙げている。『国富論』の第一章の「分業」で描かれたピン工場の実例は有名だ。一〇人ほどの小さな工場で、分業することで一日に四万八〇〇〇本以上のピンを生産していた。そしてスミスは分業しなければ、「ピン製造の技術を身につけていないとすれば、一日に二〇本を作ることも、とてもできない」[6]だろうと指摘していたのである。
そしてこの分業を成立させ、市場での交換という方式で、人々が生活に必要なすべての品物を手にいれるためには、国家による命令も、面倒なメカニズムも不要なのである。ただ人々の「自己愛」(セルフ・ラブ)に訴えかけるだけでよいのだ。スミスは、他人の助けを必要とするならば、相手の善意に頼るのではなく、「相手の自己愛に訴える方が、自分が求めている行動をとれば相手にとって利益となることを示す」[7]のが近道だと断言する。すべての市民が自己愛のもとで行動することで、さまざまな職業の分業が成立し、市場で必需品を入手できるようになるだろう。
国民がパンを毎日食べることができるのも、ワインを飲むことができるのも、それは国が命令したからでも、他者が善意で生産しているからでもない。他者もまた自己愛に動かされて、こうした商品を生産しているのだ。「われわれが食事できるのは、肉屋や酒屋やパン屋の主人が博愛心を発揮するからではなく、自分の利益を追求するからである。人は相手の善意に訴えかけるのではなく、自己愛(セルフ・ラブ)に訴えるのである」[8]。
マンドヴィルの論理
これをさらに極端に表現したのが、スミスと同時代のイギリス人のマンドヴィルである。彼は人間の欲望はつきることがないが、この欲望を滅ぼすのではなく、生かすことが社会全体を潤すことになると考えた。「悪の根という貪欲こそは/かの呪われた邪曲有害の悪徳。/それが貴い罪悪「浪費」に仕え、/奢侈は百万の貧者に仕事を与え、/忌わしき鼻持ちならぬ傲慢が/もう百万人を雇うとき/羨望さえも、そして虚栄心もまた/みな産業の奉仕者である」[9]。奢侈と浪費は悪徳であるが、それが人々の雇用を作り出し、国を富ませるのである。
重商主義の理論では、節約は善であり、浪費は悪である。しかし個人的な悪徳である浪費や奢侈は、資本主義の社会においては新たな消費を生み、生産を刺激し、雇用を創設する。個人的な悪徳は、全体的には公共の善をもたらすとマンドヴィルは主張する。「このように部分はすべて悪徳に満ち、/しかも全部が揃えば一つの天国」[10]だというのである。
この逆説は衝撃的であり、多くの人々の議論を呼んだ。しかし人々が節約し、消費を控えれば、生産が冷え込み、社会全体にマイナスの効果が発揮するのが資本主義の実際のありかたであり、彼の逆説は資本主義の社会構造を見事に言い当てていたのはたしかである。ただしこれが逆説なのは個人の消費を「悪徳」と定義するからであり、資本主義社会における個人の通常の活動としてみなしてしまえば、どこにも逆説は存在しなくなる性質のものだった。
新しい欲望の概念の必要性
このように資本主義社会のありかたが解明されてくると、人間の自己愛と欲望を否定することは、社会の存続を否定することになるのが明確になってくる。私利と対立する公益という問題構成そのものが変わってくるのである。ここから新しい欲望の理論が誕生することになり、欲望はもはや、自己のうちの欠如を欲望する主体の欲求としての「エロス」の概念では考えられなくなる。欲望する主体は、他者の必要性を認識するようになるのである。こうして欲望のうちに二人称および三人称の契機が登場する。
ただ、この新しい欲望の概念について考察する前に、この一人称としての「わたしは愛する」という欲望の構造について、もう少し考えておきたいことがある。それは「自己愛」という概念はたんに私利や私欲と同じものと考えることはできないからである。そのことを明確に示したのがルソーだった。ルソーは自己愛と利己愛を明確に区別するのである。
自己愛と利己愛
ルソーは原始状態においては、野生人にはごく穏やかな自己愛が存在していると考える。これは文明社会のうちの虚栄心としての利己愛のようなものではない。誰がも自己を愛さなくては生きてゆけないという当然の事実に注目したものであり、この自己愛は、他者の評価によって自己の価値を定めようとする利己愛とは違うものだと主張するのである。ルソーは次のように語る。
「利己愛(アムール・プロープル)と自己愛(アムール・ド・ソワ)を混同してはならない。この二つの情念は、その性格においても、その効果においても、きわめて異なるものなのである。自己愛は自然な感情であり、すべての動物たちはこの自己愛のために自己保存に留意するようになる、人間においては、理性に導かれ、憐れみの情によって姿を変えられることを通じて、自己愛から人間愛と美徳が生まれる。これに対して利己愛は、社会の中で生まれる相対的で人為的な感情である。それぞれの個人はこの感情のために自分をほかの誰よりも重視するようになる。そして人々はこの感情のために他者にあらゆる悪をなすことを思いつくのであり、さらに名誉心の真の源泉でもある」[11]。
自己愛は、自己保存の原動力であり、美徳の源泉である。これにたいして、利己愛は、文明のうちで発生するものであり、悪徳の源泉である。ただし文明人は、社会のうちで他者の評価の集中する場として生きているのであり、もはやこのような素朴な自己愛だけで生きることはできない(もちろん自己愛なしで生きることもできないのだが)。それでもこの素朴な自己愛は、現代人のうちで働いていて、重要な役割をはたしているのである。次回はそのことを考えてみたい。資本主義的な欲望とは別の道筋で、二人称と三人称の愛情につながる道が、ここからも開けているからである。