おごそかに隔つるもののあるをおぼゆ愛すといへど恋すといへど
前田夕暮
こちらも大先生。
まあそうだね、当たり前だ
おごそかにというからなにか越えられない大きなものなのだろう
カジュアルなものじゃない
なにか場違いなものを場違いなヒトに求めているのではないかという
疑いもある
恋についてあれこれ歌っているということ自体が
真実恋する人ではないのだと物語っている
真実恋する人は行為を連続していればいいだけである
それ以外に何もない
恋について語る人は
恋ではない何かに関心があるのだと思う
だから本当に恋する人の参考にはならないかもしれない
恋の感傷を賞味するのが恋ではない
恋の激情を処理するのが恋である
別れむとする悲しみにつながれてあへばかわゆしすてもかねたる
前田夕暮
将棋の名人の恋愛沙汰のような感じだと
思った
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恋でも愛でも
とにかく他人なのだから
へだてるものはあるのだと
普通なら考えられるが
恋愛状態のある局面では
ひょっとしたらその隔てもないのではないかと
錯覚することがあるということだろう
隔てることがなかった状態を
小児精神医学のようないいかたをすれば
母子一体の幻想ということになる
それでさえ母子一体であったのは一瞬であり
分離してからは
やはり別の個体であるから
隔てるものを媒介してつながっている
むしろ隔てるものがあるから
それによって媒介されてつながっているのだともいえる
隔てるものの現実としては、
やはり、物理的に別離場所を占めているということが大きいのではないかと思う。
似た風景を見ているとしても、
別のシステムが
別の体験をしているのだ。
だんだん隔てられてゆくだろうと思う。
恋愛が
一体感の幻想とつながると錯覚する、その錯覚のモードは
普遍的なものなのだろうか。
日本人男性歌人に特に固有なものなのだろうか。
普遍的であるはずがなくて、
選択と淘汰の激しい世界ではそのようなとぼけた個体は
多分相手にされなくなってしまうのではないか。
恋愛を語る時に一体感を語ること自体がなんだかもうずれているともいえる。
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新聞で、ゴーンさんが、
夫婦として共同体を作るには何かしら共通のものがなければならないといっていた。
価値観でも趣味でも金銭感覚でも。
好きだというだけでは続かないと。
生活というものはそのようなもので、
恋愛とは関係がない。
恋愛ゆえに長い時間をともに過ごすのはかなり無理だということになる。
通い婚というものが
恋愛には適しているのだろう。
生活はまた別。