ナラティヴ・セラピー

第一に、人びと(一般的に、クライエントと呼ばれている)は、自分たち特有の価値観や広く社会に流布する亡霊によって支配されている、と考えます。たとえば、「自分は長男であるのに、親の世話ができない、情けない人間です」と、個人(クライエント)が言います。「長男が親をみる」という考えは、まさに神話であり、旧世紀の亡霊であるように思います。これをホワイトは、「問題のしみ込んだ描写(probrem-saturated-description)」、あるいは「支配的物語(ドミナント・ストーリー)」と呼びました。
第二に、自分の問題は、自分の内部にあって、自分を支配しており、自分ではどうしようもないと、漠然と個人は考えます。たとえば、「子どもを虐待してしまうのは、自分が子どもの頃に親に虐待されたからであり、自分ではどうすることもできない」と、自分の行動に決着をつけます。でも、勝手に親のせいにして欲しくありませんね。これを「問題の内在化(internalizing problem)」と呼びます。

こうした仮説を前提として、どのようなセラピーが可能なのか、を紹介しましょう。

問題を外在化する

先ほどの「自分も親に虐待されたので、子どもを虐待してしまう。もうどうしてよいか解らない」という例ですが、これは、結果(子どもを虐待するという行為)から、原因(自分も子ども時代に親から虐待された)を探ろうとする手法で、現代の精神医学や臨床心理学でよく知られた技法です。テレビのサスペンス劇場にときどき登場するほどで、この考え方は、広く知られた神話です。
神話だけで終わらず「だから自分はダメだ。自分には問題がある」と、問題を内在化(internalize)します。ナラティヴ・セラピーでは、「あなたが問題ではない。問題は、あなたの外にある」、つまり、「あなたが問題なのではなく、問題が問題である」という立場をとります。これを「外在化する」と言います。
ホワイトは、問題の外在化を次のように定義しています。

『外在化とは、人びとにとって耐え難い問題を客観化、または人格化するように人びとを励ます、治療におけるひとつのアプローチである。この過程において、問題は分離した単位となり、問題とみなされていた人びとや人間関係の外側に位置することになる。問題は、人びとや人間関係の比較的固定化された特徴と同様に、生来のものと考えられているが、その固有性から解き放たれ、限定された意味を失っていく』

再著述の会話

人びとがセラピーにやってきて話すことを「ナラティヴ/物語」と言います。
その物語は、人びとを支配する物語であり、問題のしみ込んだ描写を持っています。しかし、その物語は、人びとが自分で著述したナラティヴです。自分で書いた人生の筋書です。自分の人生、あるいは生活にとってその物語が不都合であれば、書き換えればよいのです。この発想がナラティヴ・セラピーという呼称の謂われです。
ホワイトは、この発想をJ.ブルーナーの『Actual minds, possible world』(1986)と、『Acts of Meaning』(1990)から得たと言います。交流分析の人生脚本の書き換えとは、全く異なるものです。ブルーナーのナラティヴ・メタファの研究では、作家は、自分の著書を読者が書き換えることを許容して、出版する、と言うのです。ホワイトは、それを解説して以下のように述べています。

『……上手に構成された小説には、読者によって埋められなければならない物語の筋に、多くの隙間がある。よい作家は、すべてのことを詳細には述べない。そして、時間とともにプロットが明らかにする明確な出来事を解った順に結合させ、さらに底流にある物語のテーマとそれを調和させる……』(2007)

人びとの物語もまた、書き換えが可能な隙間があります。その隙間をセラピストの援助によって埋められ、自分に適合するオルタナティヴな物語に書き換えることを再著述といいます。しかし、ブルーナーの意図と異なる点は、作家も書き換える読者も同じ人間、人びとであるということです。

リメンバーリングの会話

このことばを最初に説明しましょう。
ホワイトは、さまざまな造語(メタファー)を用いますが、リメンバーリングre-memberingとは、remember(思い出す/記憶)とmember(集団の一員/会員)との合成語なのです。人びとが面接で話す物語には、「両親や兄弟の思い出や自分の人生とかかわる彼らの行為」が述べられます。また、自分が「過ごしてきた故郷やそこで人生/生活する人間」について話します。さらに、いまの自分をとりまく人間、もの、出来事、習慣、考え方、感情など、あらゆることを話します。
ホワイトは、これらを以下のように述べています。

『リメンバーリングの会話は、アイデンティティが中核自己に基づいて形成されるというよりは、むしろアイデンティティは、人生の連合の上にうちたてられると考える……この人生の連合とは、個人の過去、現在、予測される未来の重要な人物や個性から構成される……リメンバーリングの会話は、受動的な回顧ではなく、個人の現在の人生/生活と予測される未来の重要な人物や個性とかかわる……』(2007)

しかし、この会話は、先に述べた「子ども時代に親から虐待されたので、自分の子どもを虐待してしまう」というような理解や、それに基づく診断を受け入れることとは異なります。

ユニークな成果を強調する会話

「ユニークな成果」もまた、聞きなれないことばでしょう。
面接者はだれでも、人びとが話す物語のなかに、セラピューティックな「手がかり」はないものか探索し考えます。しかし、その手がかりは、人びとと共有されないと、面接者側の単なる手がかりでしかありません。ところがその手がかりが人びとと共有化される、つまり「なるほどねえ、そうなのか!」と、人びとが納得したときに、それは「ユニークな成果」になります。これは、ユニークな成果ということばではなく、セラピーの根幹技法です。
例を挙げましょう。「わたしは、もうダメです。この年まで各地の支社で社員や取引先とうまくやってきたのです。でも、本社勤務になってからはドジばかりして、もうダメだ」。この会話での手がかりは、うまくやってきた人間とダメ人間が同一人物ということです。この手がかりを発見できなくてはなりません。
面接者「あのうー、いいかなあ……うまくやってきたあなたと、もうダメだと言っているあなたは、同じ人間ですよね」と。「ええ、そうですよ!同じ人間です、もちろん」と。これが、ユニークな成果です。「同じ人間である」という理解は、「あのときうまくいって、今、うまくいかないのは、なぜか」を質問することで物語を書き換えられます。このユニークな成果を結び合わせていく会話のプロセスが、自分の物語の書き換えを可能にするのです。
イギリスのナラティヴ・セラピスト、M.ペインは、ユニークな成果と質問の関係について、以下のように言っています。

『(面接者の)質問は、人びとの過去、現在、未来に対する感情、行動、施行のユニークな成果を包含する広範なものである。面接者は、こうしたユニークな成果を証明してくれる人びと、特に、個人にとって重要な人びとが、このユニークな成果をどのように理解しているかを考えるように励ます』

質問する

最後に、質問について触れておきましょう。
わたしもそうでしたが、カール・ロジャースの来談者中心療法に慣れ親しんできた者にとって、質問することは罪悪のように感じられますが、ナラティヴ・セラピーでは、「質問する」ことが技法として重要視されます。人びとを傷つけず、しかも彼らを援助する質問は、この技法獲得のつどいの中心であると言ってもよいかもしれません。