たとえば花火。
光が見えてからしばらくして、音が届く。
雷も同様。
視覚と聴覚の食い違いに驚く。
考えてみれば、1メートル前でテレビが映っている場合も、
目から視覚処理回路に入り、総合処理されるまでと、
耳から聴覚処理回路に入り、総合処理されるまでと、
脳内回路の時間が同じはずはないだろう。
たとえば、足の親指をくすぐられている時、それを見て、聞いているとすれば、
触覚、視覚、聴覚の三者は、やはり統合中枢までの到達時間が異なるはずで、
多分、触覚が一番遅く届いているはずである。
しかし脳は、それらの情報を「同時」のものとして処理している。
これを錯覚と言ってもいいし、内部処理と言ってもいい。
同じ現象については同時だと思いこむように処理しているのだ。
同じような「時間ずらし」の内部処理として、
意思発動部分と運動発動部分の調整がある。
理屈から言えば、意思発動が先にあり、運動発動がそのあとにあるはずだ。
しかし人間はそのように分解して考えてはいない。
あまりに極端な場合は、「とっさの判断」「体が動いた」などとも言う。
意思発動が先にあるから、自由意志も存在すると、自然に考えられている。
しかし病気の一つに、意思の発動性が障害される、
「させられ体験」というものがある。
誰かにさせられたと体験するのである。
しかし客観的に見れば、自分がやっているに相違ないわけで、
意識の内部で錯覚が起こっているのだろうと推定される。
どのような錯覚だろうか?
人間の神経系は、「刺激→脳→運動」として考えることができる。
意思の発動性や自由意志をないものと仮定して、
ただ単に刺激に自動的に反応するだけの、下等な神経系を考えることができる。
人間の脳も、かなり複雑ではあるが、ただ自動反応機械に過ぎないと考えるのである。
ある瞬間に、人間はそのようなものになる。
たとえば、「無意識のうちに改札口で定期券を出していた」とか「いつもの曲がり角を何を意識するわけでもなく曲がった」とか、「自転車を無意識のうちにこいでいた」とか。
たとえば自転車の場合、子供の頃、乗り始めて練習していた時は、きっと自由意志を働かせて、注意深く大脳が指令を出していただろう。しかしそれは次第に熟練運動となり、小脳のループが代用するようになる。そうすると、脳に余り負担がかからず、考え事をしながらでも自転車を運転できるようになる。
本当は人間は自由意志はないのではないかとの疑問がわく。
そこで、自由意志の神経回路は、猿から人間に至る進化の過程で新たに獲得した新しい神経回路であると考えてみる。
刺激→自動反応脳→運動
これと並行する形で、
刺激→自由意志回路→運動
が成立するとする。
自由意志感覚部分を想定して、
そこには、情報が、「自由意志回路」からさきに入り、
次に「自動反応脳」から情報が入るとすれば、
意思が先にあり、運動があとにあるという、人間の普通の実感に合うことになる。
そしてこの部分が何かの原因で壊れた場合、
自動反応脳からの入力が早くなり、自由意志回路が遅れるので、
自由意志の感覚が奪われて、
「させられ体験」に至る。
こうした形の自由意志の喪失感は、最も甚だしいもので「させられ体験」となり、薄い形では、「強迫性体験」ともなり、さらには「自生思考」ともなるだろう。
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マインド・タイム 脳と意識の時間
ベンジャミン・リベット/〔著〕 下条信輔/訳
という本がある。
少しだけ紹介すると、
大脳の誘発電位と随意的運動の研究から見出したのは
脳からは随意運動の意思決定の時間よりも前に運動準備電位が観察される
これは、ある運動を行おうと意思決定(を意識)した0.35秒前に大脳より運動準備電位が検出されるということだ。つまり、私が動作の意思決定を自覚した時には、すでに0.35秒も前に脳が動作の準備を始めていて、動作は「決定事項」となっているのだ。
「意識」がスタートするには、こと(刺激や運動の決定)が起こってから(膨大な情報を処理して「意識」が認知できるレベルにダウンサイジングするのに)約0.5秒ほど時間がかかるにも関わらず、それを全く自覚させないように「意識」がチューンアップ(というかチューンダウン)されている。
そして、私たちは、自分の「意識」こそが「自分」であり、「自由意思」で「自己決定」していると思っているが、その全て(またはそのほとんど)が、脳というシステムが見せている錯覚である可能性があることを示唆している。
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わたしはこの「自由意志」は「脳というシステムが見せている錯覚」であるという説に賛成である。しかしかなり前の実験でもあり、リベット氏の解釈は余り詳しく検討していない。
問題は、それが錯覚だといってみても、世界は何も変わらない点である。