ブッダの言葉には特有の香りがある
何だろうかと思って考えると
離人症の感覚に近似しているのではないかと感じた
離人症の感覚とは何かといえば
これはまた大問題で説明しにくいし定義しにくいのだが
離人症の感覚と普通の感覚を比較するとして、
普通の感覚の世界に住む人が離人症の感覚の中に入れられると、
それは耐え難い苦しみであり、
その苦しみゆえに自殺しようとまで思うくらいなのだ。
逆に、離人症の感覚から普通の感覚の世界を見るとして、
それは何となくブッダの言葉に似た部分が出てるのではないかと思う。
ブッダの言葉の中に離人症の感覚が
紛れ込んでいるというのではなく、
悟りといったような高度の認識に至った人からみれば、
この世界に関しての普通の認識というものも相対化されて、
結果として、離人的な感覚で眺めたのと似る部分があるのではないかと思うのだ。
サルトルが樹の根を見て吐き気がするという時、
やはり似た感覚があるのではないか。
通常われわれがどっぷりと浸かりきっている意味の平面の網の目の中から、
垂直方向に抜け出て、その平面を眺める時の感覚である。
時間の外側に視点を置くといったら近いかもしれない。
もちろん時間の外側に存在できるわけではない。
時間の内側にしか存在できない。
しかしながら、時間の外側に視点を置くことならできないことではないと思う。
感覚できるかどうかは難しいが
四次元の球を考えることができるようなものだ。
悟りということと離人的感覚とは一致しないと思う。
それでも何か香りが似ていると感じる。