精神分析でいうと
無意識の行動があって、防衛規制があって、そして意識的合理的行動があって、という図式になる。
私の考えは少し違っていて、
無意識の行動だけがある。
それを解釈して、「意識的行動だ」とか「無意識のうちにやってしまった」とか、後付で感じているだけだと思う。
だから意識の領域で自覚をはっきりと持ち、無意識領域の行動を訂正しようというのは
どだい無理な話だと思う。
そうではなくて、オペレーションは直接無意識の行動領域そのものに向けられるべきである。
意識的に行動を正そうと考えているときも、
それは無意識領域の訂正になっているので、
結果として、行動が訂正できる。
その意味では、厳密に言うと、認知を訂正することではなくて、
行動を訂正することが友好である。
認知は行動の後付解釈でしかないからだ。
とても広く了解を得られる話ではないし、細かい説明が必要な話で、
まず用語の混乱から説明しないと行けないようなもので、
面倒なので書きっぱなしにしてしまうけれど、
とりあえず、そんな感じで考えている。
*****
要するにメイン・ルートは刺激→処理→行動である。
ここに副次的に主観的意識が発生して、
能動性が副次的に・錯覚的に生じている。
だから、その錯覚を訂正しても、行動は訂正できない。
行動は訂正する必要がなくて、それについての考えだけが間違っているときは、
認知を訂正するだけでいい。
しかしそれは主観的な苦しみにとどまる。
客観的なレベルでは障害はないわけだ。
病気としてもマイルドなことも多いけれど、たとえば、離人症状のように耐えがたい苦しみに至ることもある。
行動が間違っていて、認知が間違っているとき、
やはり行動そのものにアプローチすべきである。
普通言っている認知療法は結局は行動領域を訂正することになっているので有効なのである。
行動が間違っていて、認知が正しい場合と言えば、考えるのは少し難しいけれど、
まさに行動療法的な解決になる。
*****
こうして考えてみるとまさにここが心身問題である。
こころの問題を、それは身体(脳)の問題ですよねと言うならば、
また言葉の再定義から始めなければならないようなもので、
そんなことは誰か親切な人がやってくれそうな気がする。