いやいや、今回のうつには自分自身ちょっと参りました。
死にたいとまで思ったのは初めてでした。
死にたいというか、生きていてもこんな具合なら、死んだ方がまだましというもので、
生きていることに理由が見いだせないという感じでして。
感覚が少し変容していることをはっきり感じました。
コピー機で雑音がしますよね、あれがピーピーと異常な音になるわけです。
変だなと思いまして。異常な音というのでもない、歯車のきしむ音なんでしょうね、本来そんな音がそこにあったのかと発見したような具合です。
隣に座っている女性のいつもの香水がとてもきつくて不自然でどぎついものに思えて
感覚として耐えられない。そしてその奥には彼女の体臭が生々しくあるわけです。
家に帰ると、感覚がつらいものですから、
暗いままでテレビをつけて音量は絞っています。
パソコンでスカイプにつないで友人としばらく何か話したりします。
余計な感覚情報が耐えられない。
食事も塩も脂もお断りです。
そうめんをゆでて食べるだけでも不自然な塩分と油分を感じてしまいます。
音楽を聴くと、またこれもおかしい。
たとえば自分が普段聞いていたCDですが、
これは昔のレコード盤をリミックスしたもので、その際にボーカルが際だつようにとか、
最近の再生機で音がちょうどよく鳴るように調整されているんですが、
その拡大と縮小の具合が耳についてしょうがない。
まるっきり不自然なんです。
普段仲間と練習しているのが本物の音ですから。
ついでに、道を歩いていると、不自然なメイクの女性が目について、
わたしの目は悲鳴を上げる。
さらには不自然な体型の人も歩いていて、多分美容整形の果てだと思うわけですが、
自然というものから離れすぎている。
しばらくつらかったのですが、最近はまた元に戻って、いろいろなことが気にならなくなりました。
気にせずに生きていけるようになった。
こう思うと、この時期、自分の感覚は、変化してだめになっていたのではなくて、
多分鋭敏になって、真実をキャッチしていたのだと思います。
何が不自然な作り物であるか、
何が雑音であるか、はっきりと感覚できていたのだと思います。
つわりの時に吐き気がするのもこんな感じの敏感さの要素もあるのではないかと思ったりしています
危険なものはなるべく食べないようにするのではないでしょうか
そしてその時期がやっと過ぎて、また元の鈍感な感覚で生きるようになったわけです。
楽にはなりました。これが人間の知覚というものなんですね。
真実を知覚しているのではなくて、生活しやすいように情報を選んでいて、
変化の部分だけを検出している。
たとえていえばまた深海に戻ったような気分。
感覚が鋭敏になったときには海の上の太陽を浴びた気分でしょうか。
あの時期にはたとえばテレビを見てもつらかった。
テレビの嘘が分かってしまうわけです。
ドラマを見ても、スタジオのセットが分かるし、ビデオを切ってつなぎ合わせて辻褄を合わせようとしていることの無理が分かる。
ニュースでは何日か続けてみていると嘘が見えてくるわけですし、
テレビという紙芝居の舞台裏が見えてしまう。
そこら辺で脚本家が書き換えている様子も目に浮かぶ。
製作の過程で誰かと誰かがけんかしている感じも分かる。
女優の化粧の手抜きも分かるし、メイクさんの意地悪も分かる。
そんな雑多な状況ばかりが目に飛び込んできて、
話の筋を楽しむどころではない。
そこに誘導するために何か言っているという感じで、見ていてつらい。