ある知人は次のように書いている
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重さと長さ
似たようなものに「重さと長さ」があります。
どちらもキロで表わしたりします。
そして、似て否なるものであるにもかかわらず、知らないあいだに比べているといったことはないでしょうか?
「○○キロって言ってたけど、なんだ重さのことだったの?長さのことだと思ってた!」
評価されることが多い時代です。
しかし、注意しなければならないのは、その際の評価尺度や評価能力です。
しかも、妙な言い換えが巧妙に、知らないところでなされていることもあるということです。
そして、それがひとり歩きして一喜一憂していく…。
意図的ではないにしても、単純な行き違いだとすまされないことに留意したいものです。
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人間はどの程度かは違いがあるとしても、
結局は組織の中で生きているもので、
「評価尺度や評価能力」に大きく左右されてしまう。
サラリーマンの場合は上司の人事評価が人生を決めていくわけだし
学生の場合なら試験という評価尺度が集団の中からの選別を決定していく
選挙でもそんなところがある
いったい何が評価されて当選しているのか怪しいものだ
いったい何を誰がどのように評価して
サラリーマンの昇進が決まり
学生の選抜が決まり
政治家の当落が決まるのか
よくよく考えると
ねじ曲がった現実はいくらもあるようにも思う
極端で罪のないたとえを言えば
水泳の100メートルの速い人に審査員になってもらって
誰の歌がよかったかを判定してもらう
紅白歌合戦のようなことを
いつも繰り返しているのがこの世界ではないかということだ
官僚裁判官がどのような判決を出しているかは
新聞がいつも騒いでいるとおりだ
3月の定期異動までに仕事を片付ける
地域の土建屋が議員になりやすいから
地方議会は土建屋の多数決になり
新しい大学の建物は建つけれど
銚子の公立病院は潰れてしまう
介護が本当に必要な人たちは
お金もないし親戚も知人もいない
介護認定をするために役人がやってくるのだが
その認定はいったい何を認定しているのか
甚だ疑問なのだ
たった10メートルを歩くのに30分かかりましたと答えれば
30分歩けるのですねと記録され報告される
介護認定などは完全に重さと長さを取り違えている例だろうと思う
こんなことが果てしなく繰り返される社会で
我々は生きている
こんな社会にしたのは私たちで
こんな社会を子どもたちに渡そうとしているのも私たちなのである