谷川俊太郎が古くならない理由

谷川俊太郎の文章は古くならない。どうしてだろうか。

現実的具体的な文章は古くなる。
非現実的抽象的な文章は古くならない。

例えば、莫言の小説を読めば、その背景に中国近代の歴史があり、人民公社や生産隊の知識がなくては、文章の機微を味わうことは難しいだろう。
また例えば、モンテーニュの文章を読むにあたり、カトリック、ローマ、ギリシャの歴史なり文学なりを理解していることが必要だろう。

同じようなことが谷川俊太郎について言えるだろうか?
彼の言葉はもっと非現実的抽象的であると感じられる。
しかしそれは私の錯覚かもしれない。
私が谷川俊太郎の文化圏にすっぽりとつつまれているせいなのかもしれない。

愛とか空の青さとかそんな言葉が並んでいる。私は抵抗なく受け取っている。
しかし文化が違えば、愛という言葉が含んでいるものはかなり違ってくるだろう。空の青さといっても、背景にあるものは異なるだろう。
カトリック的アガペーとか、人民公社的革命とか、そんなものと同じで、谷川俊太郎的愛なのかもしれない。

夏目漱石が古くならないのはどうしてだろう。
多分、我々の文化の中軸を夏目漱石の後輩たちが死守しているからだろう。

それとも、夏目漱石と谷川俊太郎に、当然古くならないだけの、
普遍性があるというのだろうか?
そんなことは、おそらく、ないと理屈では思う。
私の感性は、夏目漱石と谷川俊太郎は古くならないと感じているのだが、
そのことを一種の錯覚だと思っている。