キリスト教を史的唯物論的に明解に分析した人として、
Hans Küngを記憶している。
カトリック神学者であるが、何と、教皇の無謬性を批判、教皇だって間違うだろうと、
非常に当たり前のことをいったので、キリスト教学者から一斉批判を浴びた。
しかしその分、諸宗教の対話を推進する役者としては適任となった。
キリスト者にとってはかなりの重大問題である、現代科学とキリスト教、たとえば、量子力学、宇宙論、神経科学、進化論とキリスト教の立場はどのように対立しているのかいないのかといった問題を扱っている。
欧米の論者は、キリスト教の常識を、前面に立てて述べることはしないものの、
背景には当然のものとして、そのキリスト教的背景に抵触しないように、
立論することが多いと思う。
特に、教授職などに就任したりすると、もうそこから先は妥協あるのみといった人が多いのだけれど、
なんとキュング先生はあくまでも反抗する人である。
だから、キュング氏と、ローマ教皇が会談したとなれば、ニュースになる。
ただし、ここがキリスト者的なところなのだが、
キリスト者たちは、「教皇様はなんて心の広い方なのだろう、本当に自信があるから、会談にも応じられるのだ、やはり教皇の無謬性は間違いない」などとなるようなのだが。
昔、中村元先生が生きていて、東方学院で毎週月曜日に講義をしていた頃、
Hans Küng先生を招いて、講義してもらったことがある。
若かった私は一番前の席で聞いた。
キリスト教は時代とともにどのように変遷したか、
そしてそれは文明の進歩の状況とどのように対応していたか、
つまり、マルクス主義的下部構造と上部構造の対比として説明して、
あまりに鮮やかで、驚いたものだった。
これが学問することだと思ったし、
歴史を分析するとはこういうことなのだと、
目を開かれた。
中村元先生は、教皇の無謬性を批判した勇気ある学者ということで持ち上げていた。
キリスト教に関する史的唯物論的考察とパラレルな形で、
仏教についても分析が可能で、
そのような分析の後に、
変化したものと変化しないもの、共通なものと共通でないものを比較検討していけば、
実り多い学問ができるだろうという提案だったと思う。
わたしはそのような話は大好きだったけれど、
毎週の中村先生の講義は、パーリ語と漢文を行き来して、意味を確定してゆく地道な仕事で、
それについては、とてもまだるっこしい感じがしてしまった。
Hans Küngはフロイトについての小さな本もあって、翻訳も出ていて、読んだような覚えがあるのだが、
いま思い出せない。
『フロイトと神』鈴木晶訳、教文館、一九八七年というのが見つかったけれど、これだったか、分からない。
フロイトはフロイトで、宗教について、キリスト教について、卓抜な論を述べている。
キュングはそうしたフロイトについて、精神分析と神・宗教について、論じ返しているようである。
フロイトの立場を言えば、こうなるだろう。
宗教とは幻想であり、一種の集団神経症である。神は存在しない。神は幻想であり、人々は長年、神なるものに父親や母親のイメージを投影してきた。人間が神の似姿であるというユダヤ・キリスト教の観念はそれ自体幻想であり、一面では人間のナルシシズム(自己愛)の産物である。
精神分析により無意識内容を意識化していけば、キリスト教における神の啓示は結局、精神病理学的領域の現象であるということになるのだろう。精神分析が自らを科学であると信じた幸福な時代である。
初期のフロイトは人間の心を機械論的にとらえて、そのメカニズムを解明しようとしたと思うし、それこそが正しい態度であったと私は思う。
キュングの立場を言えば、こうなるだろう。
精神分析は無神論的唯物論的思考の一種であるが、それは、フロイトの生きた時代と地域に特有のもであり、理解可能なものである。そして、西洋文明長い歴史の中で、フロイトが、そしてマルクスが出現する必然性があった。そして、フロイトの立場もマルクスの立場もキリスト教を豊かにしてくれる。これは、後に生まれたが有利な立場に立っているということだ。パウロやアウグスティヌスよりもフロイトは有利であり、キュングはフロイトよりも有利な立場にある。フロイトは徹底的に批判したように見えて、実はその磁場の範囲内にあり、批判もキリスト教という多面体の一部である。
こう考えてみれば、フロイトの思考も、歴史の一部であると考えられ、また、現代的な脳科学と哲学の関係にも似ている。
こうして並べてくると、議論のレベルはどのあたりかということが問題となる。上位のメタファーを議論しているのか、下位の具体物を議論しているのか、その中間には無限の段階があるだろう。