大江健三郎「取り替え子」

面白く読んでいるのだが、
著者の性質というよりは、読者としての自分の性質として気付いている部分がある。
この書物でも、私は前半の語り口にはとても親和性を感じている。
しかし後半の語り口には自分は親和性がないと感じる。

全般に同じことが言えるようで、
小説については、テイストが合わない。
エッセイその他、「グロテスクな芸術的変形」のない文章については、
とても納得させられる。

芸術的に変形させられた文章と付き合うことで
読書の体験が得られるのだけれど、
この著者の文章に付き合うのはなかなか大変である、自分としては。

高橋和巳なども文章はかなりグロテスクと評価されると思うが、
私にはとても親和性がある。

平たい言葉で言って、好みの問題ということなのであろうけれど、
一人の著者の書く文章の中で、これほどまでに自分に合う合わないがくっきりと感じられるものも珍しいと思っている。

多分、私は著者の抱く「何を」書くかに関心があるのであって、
「いかに」書くかについては、すでに何度も、自分としては好まないと結論を出しているということなのだろうか。

そんなことを考えつつ、読んでいる。

今日もくもり、肌寒いくらいの一日だった。
窓から見える桜はもう葉と同居を始めている。
ときに吹く風に応じて花びらを散らしている。
下の道は鮮やかな彩りで点描を施されている。
桜の木の隣に銀杏の木がある。
先日までは枯れ木だったのだが、
昨日から突然、まったく突然に、若芽が吹き出して、
目に見える黄緑に変わっている。
何というめざましい春だろう。
別の場所では柳の若い緑が桜の薄い桃色に寄り添っている。
人生と同じに、次々と新しい課題が出番を待っているのだ。