トロッコ問題

新聞で紹介されていた。

トロッコが線路に沿って走っている最中、制御が利かなくなった。このままでは線路の上に立っている5人がトロッコに轢き殺されてしまう。そこでトロッコを別路線に引き込んで5人を助けたいが、この場合別路線に立っている別の1人がトロッコに轢き殺されてしまう。トロッコを別路線に引き込むべきであろうか?

つまり5人を助ける為に他の1人を殺してもよいか、という問題である。

トロッコに6人乗っていて、
一人を犠牲にしてブレーキにして、
5人が助かったとすると、
引き込み線に1人いて、本線に5人いるのと、状況は同じになるとも思える。

ここでは、誰か一人、という条件が出てくるので、違うと思われる。
たていては、一番年寄りが、という話になって、
後期高齢者医療と同じになる。

自己犠牲精神のある人が率先して犠牲になり、そういう遺伝子が残らないという矛盾も抱える。

三浦綾子「塩狩峠」に描かれている。

もっと過酷な条件は、
子供のうち誰か一人を犠牲にするなどというもので、
これは親にとっては、選択しようのない問題である。

ウィリアム・スタイロン「ソフィーの選択」ではそんなことも描かれている。
ソフィーの「選択」はそれだけではないのだが。

他の者たちは死んだのに、
どうしておまえは生き延びたのか、
あのアウシュビッツの収容所を、
どのようにして生き延びたのか
と問われれば、
いま生きている全員が
太宰治のように
生きているということはインチキをしているということだ
生まれてきてすみません
というようなことにもなる。

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トロッコ問題では、
どうせ誰かが犠牲にならなければならない、
と割り切ることのできる脳の人もいて、
ヂクヂク悩む人の脳とはかなり違うらしい。

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サバイバル・ロッタリーの話もあり、考えると深刻だ。
よく分からない。

話は違うが、
我々が食べている魚を養殖するために
アフリカの人々が苦しい思いをするという映画があった。

 

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サバイバル・ロッタリー

仮に、重病な患者がふたり居たとします。ふたりとも末期的で、このまま放っておくと確実に死んでしまいます。しかし、ひとりは心臓を、もうひとりは肺を、それぞれ他人から移植してもらえれば助かるとします。

この場合、ヒトとして正しい行いとは、いったいなんでしょう?

例えばくじ引きで犠牲になる方を決定し、もう一方に臓器を与えれば、少なくともひとりは助かります。これは、このまま放っておいてふたりとも死ぬよりも、おそらくは正しいことだと言える……かな?
 
 
さらに、もうひとり健康な人を入れて、3人の場合を考えます。

ここで、3人目の健康な人に犠牲になってもらいましょうか。すると、この不幸な犠牲者から肺と心臓をもらった瀕死のふたりは、幸運にも生きながらえることができるはずです。3人中2人が確実に死ぬはずが、1人の犠牲ですんだわけです。人の命は地球よりも重いそうですが、3人の命の重さが等しいと考えるのなら、2人死ぬより1人死ぬ方がマシなはずです。健康な人の命はもちろん大事ですが、病人の命だって同じように大事です。この策に対して、感情的なもの抜き反論するには、どうしたらよいでしょう?
 
 
お話をもっと広げます。

日本国民全員がクジを引きます。例えば一日に1人づつ当選者を決めて、問答無用でその人の臓器を必要な人に分け与えるとします。臓器移植の技術は日進月歩ですから、おそらくクジの犠牲者の数よりも、それにより救われる人の数の方が遙かに多いでしょう。

仮に、クジには一切の不正がなく、救う人の選択も適切で、移植技術が完璧であるとした場合、この国民総くじ引き制には問題があるでしょうか? 一日1人というと、交通事故や自殺による死者よりも遙かに少ない数ですから、身の回りの人が当選する確率はほとんどありません。また、くじ引きには不健康な人も平等に参加してもらいますので、健康な人だけが一方的に不利ではありません(老人や瀕死の人が当選した場合は、使える臓器も少ないでしょうが、それは仕方がないとします)。

純粋に最大多数の最大幸福を求めた場合、この理屈に対して、不合理な感情ではなく、あくまで論理的に反対する術はあるでしょうか?
 
 
世の中の倫理学者達は、実際にこんな問題を自問自答し、激しく悩んでいるそうです。

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サバイバルロッタリーというのは、最大多数の最大幸福を求める倫理学の一派(功利主義)が自らを皮肉ったもので、多くの人が反対できない倫理観を作ろうとして、実際に論破が難しい行為を考えついたのに、なぜか多くの人が嫌悪感を感じてしまう、という矛盾を楽しむ(?)ための理屈なわけです。