ずる休みという言い方がある
嘘をついて休んで得をするという言い方なのだけれど
何が得なのかわたしにはよく分からない
キセルをするなら単なるズルだし分かりやすい。
一種、合理的ではある。
こちらは反社会性の性格障害の軽度のものという人もいるでしょうし、
人間はそんなもんだという人もいるでしょう。
しかしキセルをするとき気分はよくないだろう。
キセルをして得意な気分というのはやはり少し普通ではない。
変なたとえですが、
新宿からお茶の水まで行くとして、中央線を使わず、山の手線と総武線で行くとしたら、
やはりなんだか理解しにくい人ということになるでしょう。
電車が好きとか、田端の駅が好きとか、西日暮里の駅前を通りたいとか、
いろいろあるかもしれないが、そんな説明もないとすれば、わかりにくい。
これは理性の病と言うべきでしょう
理解できない
制度を前提にして
自分の生存を楽にする方法をどの生物も考える
特殊な環境を用意すれば特殊な進化をする生物が現れる
特に不思議はない
新宿からお茶の水まで、中央線を使わず、山の手線と総武線で行く
それで釣り合うものなのか、得になるものなのか、よく分からない
煤煙のはげしい場所では蝶々は黒いやつが多くなる
黒くなったけど、それで幸せなの?
お勉強が出来ればいい暮らしが出来る
だから塾に行くというのも同じ
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ニート・フリーター問題は、
学校制度と仕事社会制度が解離していることもひとつの原因だと思う
二つがうまく接合していない。
学校の出口と仕事の入り口がうまくつながっていない。段差がある。
昔は東海道線から埼京線への直通みたいだったのが
最近は乗り換えで大変。
学校は、徐々に職業人としての適正を養う場所であったと思う。
最近は学校は個性を伸ばす場所らしくて、
自分らしさを出していればいいらしい。
ほとんど何もしなくても卒業できる。
自分らしく生きてきた人たちは社会に出て、段差につまずく。
もっと昔の時代には兵隊をつくるための学校だったわけだし
この間までは外資を稼ぐための労働者をつくる学校だった
本来学校はそんなものではなく人間としての成長のチャンスを
多様な形で経験する場所である
現在でも知能の高い学生を集められる学校では
そのような教育が可能である
勉強は各自が勝手にやるのだから
学校はいろいろなチャンスをつくって世界と人生の多様性を経験してもらえばいい
一般教養というものである
何の役に立つのか分からないものをやらされる
これは制度への適応の教育と反対方向ものであって
その点で興味深い
映画「いまを生きる」で描かれていた