『ものつくり敗戦』という本がある。
日本的な勤勉システムは今後は不都合であるという論旨らしい。
ゼロ戦や戦艦大和のように、技術水準では世界最高峰の作品を完成させながら、
戦争では負けてしまう、というパターンを日本は繰り返してきた。
賃金は中国の20倍だというのに、労働集約的産業にこだわっている。
現在では電子産業では負けたし、ITも負けているし、バイオも勝てていないし、
エコで勝っても儲かるのか怪しいし、将来展望が開けないので、このような話にもなるのだろう。
しかしながら勤勉でないほうがいいという論は成り立たないので、
勤勉の配置の仕方というか、勤勉の時と場合というか、
そのあたりの判断の問題なのだろう。
強迫性障害の人は、実に素晴らしく勤勉であるが、無駄な場面で勤勉であることもしばしばで、
だからこそ「病気」と認定されるのであって、
世の中に生きていてかなりの強迫性障害でも、
適切な場面でそれを発揮していれば、本人も周囲も困らない例はたくさんある。
学者さんなどはだいたいそんな人が多い。
資料整理箱は素晴らしい勤勉の成果である。
しかし、「病気」の人の場合には「いったい何のために?」というと
「ただひたすら勤勉のために勤勉」としか言えないような場合がある。
勤勉といえば二宮尊徳でうつ病になりやすい性格でとすぐに連想する立場では、そんなことを思う。