自己愛について 理解との違い

わたし、自己愛がどんなものか少し分かった気がするの

とその人は言う
話を聞いてみる
わたしのところに出会い系サイトのメールが来ちゃうの
どっこかの名簿から流出したのかどうか知らないけど
いろんな人からいろんなメールで
もちろん中は開けないで迷惑メールに直行で捨てるんだけど
たいていはどうしようもない言葉ばっかりなんだけどね
中に
タイトルを見ると「●●さんでないとだめなんです、つきあってください」
なんて書いてあるのがあって
ああ、これが自己愛を刺激する言葉なんだって思ったの
「●●さんでないとだめなんです、つきあってください」っていうセリフを
ある程度知っている仲の男性から言われると
何だかわたしの魅力を理解してくれたのかなって思うでしょう
普通の愛の言葉よね
その同じセリフを全然知りもしないし
関係ない人から当てずっぽうに言われているのが
そのメール
全然知らない人にも一応言えるのがこの言葉なんだと思ったわけ
全然知らない人にこんなこと書くなんてバカだなあって思うけど
考えてみると
わたしのことを知っている人だとしても
どの程度知っているのかよく考えると
ほとんど知らなくても、かなり誤解していても、
「●●さんでないとだめなんです、つきあってください」って
言えるわけじゃない
わたしについてのしっかりした理解はなくても言える
ということは、結局その言葉は、男性の愛の強さの表現じゃなくて、
わたしの自己愛をくすぐる言葉だってことが分かったの
だってわたしのどこが具体的にどうなのか何も言ってないもの
どうしてわたしのことが好きなのか何も言わないでも
「●●さんでないとだめなんです、つきあってください」とは言えるでしょう
つまり誰でもいいって言うのと同じ
困るのは、ある程度知っていて、そんなに悪く思っていない人にそれを言われると、
内心、自分だって少しは魅力あると思っているから、そうか、この人はわたしの魅力が分かってしまったのね、
なんて思う
そこの部分がわたしのナルシズムなんだ
とまあ、こんな風に思ったの
どう?
つまりこんな言葉のやりとりをしているのは
恋愛なんかじゃなくて自己愛ごっこなんだ
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なるほどそうかもしれない
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この人は自己愛を刺激される言葉ではなくて
自分が本当に理解されていることを強く求めている女性だ
しかし人間同士の場合、それが難しい、極端に難しいのだ
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たとえばの話、君はバラより美しい という 決まり文句を言う男の 
バカさ加減に我慢がならない ところまで来てしまっている
単純に喜べばいいが 心のからくりを知ってしまっている以上 どうしようもないだろう
この人は「具体的などのバラのどの部分が」「具体的にわたしのどの部分と比較可能で、結果はどうなのか」
というような精密さを求めているので
簡単ではない
「ボッチチェリのビーナス誕生の絵をウフィッツィ美術館で見たときの
あの目の表情が忘れられなくて 
君に最初に逢ったとき 君の目がまさに それなんだ と惹きつけられて
そのあと一日だって忘れられないんだ」
くらいを 試しに言ってみたら まずまず 恋人としてではなく 話し相手として 合格だった
嘘だとバカだと思われるので
本当のことではなくてはいけない
実際その人の瞳は ポッチチェリ以上に見事に美しいのだった
その先は 言葉がない 命がけで愛する なんて言う言葉くらいしか 思いつかない
自分の美しさと聡明さについて明確に正確に自覚していて 
その美しさと聡明さを正確な言葉で表現してくれる 男性を求めているのだ
ややこしいこと限りないが
しかしその美しさと聡明さを見てしまえば
他と比較するも 愚かである
その人の場合 美しさと聡明さが 同時に二つの目に宿り 
いまどきの娘たち同様に わがままであるが 
いまどきにはないくらい深情けで 
それを知ってしまった男としては なんとも どうしようもない