井筒俊彦先生の「意識と本質」(岩波文庫)
人間の本質を解き明かそうと瞑想していくと、精妙で純粋な、限りなく透明感のある意識に近づいていき、自分自身が存在するという意識はハッキリとあるのですが、それ以外の五感はすべてなくなり、最後には「存在」としかいいようのない意識状態になります。
それと同時に、森羅万象すべてのものが、存在としかいいようのないものから成り立っていると意識できるようになる。その意識状態こそが人間の本質を表しているというわけです。
僕というひとりの人間が意識することで、「花」という言語はそこに生きている「(花と呼ばれるべき)存在」にも影響をもたらします。
何故ならその存在が「花」という僕の意識のなかから生まれた「花」を多様なすがたで演じてくれているからだといいます。
「花が存在している」のではなく「存在が花をしている」。
これは故井筒俊彦氏が「意識と本質」というテーマで論じられていることを思い切り簡略にした要旨ですが、このことを、心理学者の河合隼雄氏は、実にやさしい言葉で言い替えておられます。
—「あなたという存在は花を演じておられるのですか。私という存在は河合を演じているのですよ」とその花に語りかけたくなる、と。
上述の「五感がなくなり存在感だけが残る」のくだりは、まるで般若心経 Heart Sutra の導入部かあるいは禅のメディテーションをしている感覚ですが、井筒先生のご専門はイスラームとその哲学でした。
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久々にこんな文章に接してみているが
考えてみると
ケン・ウィルバーの指摘するプレとトランスの錯誤がこのあたりにも潜んでいて、
それをきちんと明示することは結構難しいように感じる。
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ポエムに対して
ポエムで応じているだけかもしれず
それはそれでいい
あるいは本気なのならば
それはそれでどうなのかと言わざるを得ないかもしれない。
学校のイスラム学の先生としてはそれでいいのかもしれない。
大局的に見て 期待される役割を演じているのだから
それでいいということになる
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どうしようもなくつまらない