何をして 身のいたづらに 老いぬらむ 年の思はむ ことぞやさしき

何をして  身のいたづらに  老いぬらむ  年の思はむ  ことぞやさしき
何をしてこの身は無駄に老いてしまったのだろう、「年」がそれをどう思うかと想像すると身が細る思いだ
「やさしき」の語は「身が細る」「身が細るほど恥ずかしい」で、心根が優しいとは違う意味のようだ。
痩すが動詞で、痩さしが形容詞。
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ここで「年」がわたしの人生の時間をどう判定するだろうか、
それを思うと恥ずかしいと思うなどというのであるが、
このあたりの思考は平安の思考としては面白い。
神とかえんま様とか、エジプトの天秤を持った神様とか、
そんな人たちが、人生を判定するのは分かる
しかし「年」がわたしの人生をどう判定するか、気になるというのである。
この方面では、次のようで
(1)引きずる派……因果応報、輪廻転生、地獄
(2)水に流す派……悪人正機
どちらかと言えば、引きずるのが素朴派で、水に流すのが高等宗教の傾向だけれど、
そこには記録者とか判定者が当然介在するものだろう
それを「年」と表現した何かが登場しているので、これは何だろうか
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それとも、意味の取り方が間違っていて、
無駄に年をとったなと、重ねた馬齢のことを考えると身が細る思いだ
くらいでいいのかもしれない
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追記
考えてみれば、人間は年をとるごとに内面的には成熟するものだと思う
成熟しない人もいるので
変化するものだと一応しておけばいいのかもしれない
そうすると、意味のある人生にしようと思って懸命に過ごした時間が
自分の内面の価値観が変化することによって
大変無意味なものになってしまう危険がある
たとえて言えば
自分はピッチャーがいいとずっと思っていたけれど
バッターの方が本当は良かったとか
かつての軍国少年などは後悔の典型である
しかしそれでは後悔しない永続する価値観は何だろうと言われて
なかなか答えられない
抽象的な言い方をしておけば間違いはないかもしれないが
生きる指針とするには物足りない
むしろ、昔あんなにもいいと思ったものが、いまは価値がないと思えるというその自分の内面の変化の仕方に
感慨がわく
年をとって内面の変化もあるのであるが
身体の変化も大きくて
これはどうにもならない
そのことも価値観の変化に大きな影響を与えていると思う
年をとってみると
いろいろな価値観があって
どれも相対的で
どれも一応の存在理由もある者なのだと知るようになる
一方では、自分の信じた価値観も一面的で一時的なものであったと知る
また一方では、そのような若い思い込みも、仕方のないものなのだと知る
むしろその若い情熱がいとおしくもある
結局無駄なことと知りつつも
若い人の情熱を応援してやりたい
そんな気分はある
そんな気分で
何をして 身のいたづらに 老いぬらむ 年の思はむ ことぞやさしき
の歌を眺めてみると
いったい何をしてこの年月を過ごしてきたものだろう
無駄に年をとってしまったものだ
しかしまた過ごしてきた年月を思うと優しい気持ちになって世界を肯定できる面もある