ジョビン、ヴィニシウスを歌う~トム・カンタ・ヴィニシウス

ジョビン、ヴィニシウスを歌う~トム・カンタ・ヴィニシウス

解説

ボサ・ノヴァ生みの親の一人である詩人、ヴィニシウスの没後10年目に行なわれたコンサートのライヴ録音(90年)の再発。ジョビンとの共作曲ばかりでなく、ヴィニシウスが作曲した名曲も取り上げられていて、作曲家としての彼の素晴らしい才能にも光が当てられている。パウロ・ジョビン、ジャキス&パウラのモレレンバウム夫妻、ダニロ・カイミらジョビン・ファミリーも参加し、音楽にはインティメイトな雰囲気が漂う。故人を偲ぶように、また音楽に込められた故人の魂を慈しむように歌い、演奏するジョビンの歌声とピアノが味わい深い。 (上村敏晃)

 

http://www.tsutaya.co.jp/works/20019230.html

 

 

1 別れのソネット(ソネット・ダ・セパラサォン) 

 

2 ユリディスのワルツ 

 

3 別離のセレナーデ(セレナータ・ド・アデウス) 

 

4 愛の不安(メード・ヂ・アマール) 

 

5 インセンサテス 

 

6 ポエティック(ポエーチカ) 

 

7 君がいなければ(エウ・ナォン・エジスト・セン・ヴォセ) 

 

8 最後の春(デハデイラ・プリマヴェーラ) 

 

9 モヂーニャ 

 

10 あなたを愛してしまう 

 

11 トムへの手紙|トムからの手紙 

 

12 フェリシダージ 

 

13 君と僕 

 

14 カリオカのサンバ 

 

15 彼女はカリオカ 

 

16 イパネマの娘 

 

17 君の瞳に(ペラ・ルス・ドス・オーリョス・デウス) 

 

インセンサテス

フェリシダージ

はよく取り上げられる

 

Carta Ao Tom – Carta Do Tom もまた


http://www.youtube.com/watch?v=ZjeEqBKhGW4


イパネマの娘は こんな歌詞


ほら ごらん
なんて美しい娘なんだろう
甘くスイングしながら
浜辺の通りをゆく
あの娘

黄金色の肌の輝き
イパネマの太陽のように
その 彼女の揺れる姿は
この世で いちばん美しいもの

ああ、なぜ僕は
こんなに孤独なのだろう

ああ、なぜすべては
こんなに悲しいのだろう

ああ、
あんな美しさが存在するというのに
その美しさは僕のものではない
ただ 通り過ぎてゆくもの

彼女が通り過ぎてゆく時
世界中は微笑みをうかべ
愛で満たされる


たとえば解説付きで


http://www.youtube.com/watch?v=W7Y-ErXrbiQ


この映像でカルロス・ジョビンの家というのが出てくるが

このあたりのマンションはこんな風に鉄格子がはまっているようで

これは普通の光景のようだ


ーー

解説によると


『イパネマの娘』(Garota De Ipanema)
ボサノヴァの代表曲

ブラジル、リオディジャネイロのイパネマ海岸から100メートルほど通りを入ったところにあるレストラン、
1962年始め、ここであの有名な「イパネマの娘」という曲は生まれました。

アントニオ・カルロス・ジョビンと、当時コンビを組んでいた詩人のヴィニシウス・ジ・モライスは、
よくこのレストランで曲の打合せをしていました。
そのとき、ジョビンは店の外を歩いて行く一人の美しい女性に目をうばわれ、
ヴィニシウスにこう話しかけました。
「ほら、ごらん、なんて美しい娘なんだろう」
このモデルになった娘の名はエロイーザ、当時16歳。
そして、この言葉がそのまま「イパネマの娘」という曲になったと言います。

この年の終わり、ジョビンとジョアン・ジルベルトたちはアメリカへ渡り、コンサートやレコーディングをします。
人気のジャズ・サックスプレイヤー、スタン・ゲッツは早くからこのボサノヴァに注目していて、
すでにギターのチャーリー・バードのアイディアで、ジャズにボサノヴァを取り入れた、
「ジャズ・サンバ」というアルバムを出してヒットしていました。
ですから、スタン・ゲッツは本場ブラジルのミュージシャンであるジルベルトたちと共演することで、
ジャズとブラジル音楽との融合(フュージョン)をはかろうとしたのです。

それが1963年にレコーディングされた、「ゲッツ/ジルベルト」というアルバムで、
この中に「イパネマの娘」という曲が収録されました。
そして、この曲には、製作過程では全く予定外だったジョアン・ジルベルトの妻、
アストラッド・ジルベルトの歌が入っています。


「イパネマの娘」をレコーディングしている時に、
歌手になりたいと思っていたアストラッドが、自分も歌いたいと言い出したそうです。
ジョアンはド素人のアストラッドに歌わせるなんてとんでもないことだと、
何とか歌わせないように説得しましたが、
一緒にレコーディングをしていたアントニオ・カルロス・ジョビンが別トラックに歌わせるだけ歌わせて、
ミックスダウンの時にそのトラックは削ればいいんだからといって、英語の歌詞で歌わせたそうです。

やはり、アストラッドの歌はとるに足らないひどいものでした。
発音やイントネーションの間違いも多くて、何回も取り直しをしてやっと完成させたといいます。
マスターテープにはジョアン・ジルベルトの歌とは別のトラックに、
単独でアストラット・ジルベルトの歌だけが入っています。

アルバムになった時に、「イパネマの娘」は1コーラス目はジョアンのポルトガル語の歌ですが、
2コーラス目と3コーラス目はアストラッドの英語の歌になっていました。
そして、1964年にこのアルバムから「イパネマの娘」がシングルカットされたのですが、
その時にはジョアン・ジルベルトの歌は全て削られ、アストラッド・ジルベルトの歌だけになっていたのです。

そのおかげで、このレコードは200万枚を売リ上げるという大ヒットとなり、
ボサノヴァは、アメリカにおいて
ポピュラー音楽の仲間入りを果たすことができました。
アストラッドの素人っぽい歌も、結果的にはヒットの要因となったと言えます。
「ときどきイントネーションを間違い、音程がみだれるところが彼女の魅力である」と評価されました。

当時のプロデゥーサーのクリード・テイラーは、
「ジョビンが、この曲には英語の歌詞があってアストラッドが歌えると言ってきたので助かった。
もし、あのままジルベルトがポルトガル語で歌っていたのなら、おそらくヒットはしなかっただろう。
ジョビンは賢い男なので、そのへんのことを良く分かっていたのだろう。
アストラッドが英語で歌った時に、これでヒット間違いなしと確信した」と話しています。

ジョアン・ジルベルトは、ギターのリズムとポルトガル語の歌があってこそボサノヴァであると信じていました。
しかしこうして「イパネマの娘」はジョアンの全く意図しない不本意な形になってしまったことで、
ボサノヴァの代表曲として、世界中に広まる結果となりました。
この曲はグラミー賞を獲得し、歴史に残る一曲となりました。

ジョアンとアストラッドは、この後破局を迎え、
ジョアン・ジルベルトとアントニオ・カルロス・ジョビンは、この「イパネマの娘」のレコーディングを最後に
二度と一緒に作曲や演奏活動をすることはありませんでした。

偶然と奇跡から生まれた曲、『イパネマの娘』


http://www.youtube.com/watch?v=_ZmQr78Otv4&NR=1&feature=fvwp


このヘタウマをみんな真似している様子だ


ーー

というわけで


16歳のエロイーザ


ああ、なぜ僕は
こんなに孤独なのだろう

ああ、なぜすべては
こんなに悲しいのだろう


ああ、
あんな美しさが存在するというのに
その美しさは僕のものではない
ただ 通り過ぎてゆくもの


ーー

わたしなりに

美しさにひそかにこころ惹かれる娘はいて


ある人はその娘を見て

「若い頃の中森明菜に似ている」

というので

絶交した


先日中森明菜がテレビで古いフォークソングを歌っていた

学生街の喫茶店とか


歌もルックスも評価できない


どうしてあの娘と中森明菜の若い頃が似ているというのか不可解


ーー

とはいうものの

わたしとその娘は何の関係もあるわけではなく


彼女は ただ 通り過ぎてゆくもの

なのだ

ーー
バラの花でも愛していた方が報われる

ーー
あなたは雨 わたしは花 そんな愛を望みたい

という 「おいしい水」もあるけれど

花とは思えない せいぜい 草だけれど

http://www.youtube.com/watch?v=5ScQszabm18&feature=related