体験の普遍化

「自分も同じ経験をしているからよく分かる」

という理屈は素朴すぎる
第一、同じ体験という言い方が粗雑すぎる。体験の主体は必ず違うのだから。
第二、何が分かっているのか大変怪しい。何も分かっていないことが大半である。
ーー
見方を変えると、こうした場合の
たいていこの言明は
わたしはあなたの味方であるという表明なのだが
同じ体験をした人にも否定されるとなると
もうあとがない
という、明らかな危険をはらんでいる
「わたしも同じうつを体験しました」と言う人に、
「わたしの体験から言うけれど、あなたは甘えているだけです」と言われたら、
もうなにも話にならない。
どうして「あなたの体験」から「わたしのは単なる甘えだ」とつながるのか、
全く分からない。
そして味方のままでいるか、途中で敵になるかは、
こちらの出方や都合は全く考慮されない。
全部相手の都合次第である。
ーー
「自分も同じ体験をしている」と語るとき
どの程度の普遍化・抽象化ができているかが重要である。
体験の本質をよく理解しているならば、
その一点で、体験を共有していると語ることができる
しかし本質をずれたところで体験を理解しているならば
「同じ体験」とは言えないのだ
あるいは似たような体験をして全然違うことを学んだ人と言えるだろう
ーー
簡単な話、年をとっても、少しも賢くならず、馬齢を重ねる人がいる。
「自分も同じ体験をしているけれど何も分からない」と言うことになる。
ましてや他人のことなど分かるはずがないのだ。
このあたりは
思考が粗雑な人間ほど
「自分も同じ経験をしているからよく分かる」と言うのであって、
そこにある理性の欠如を悲観した方がいい。
ーー
体験を普遍化・共有化して、
自分の個別の事情は排除して、
抽象化する、
これは実に複雑で困難な事業であって、
簡単に言明できることではない。
わたしは自分のことしか言えないけれど
それも現在の立場での言葉しか言えないけれど
というのが
知的誠実というものである。