自殺とは、社会的に『強いられる死』である
~この異常事態、放置していいのか
『強いられる死 自殺者三万人超の実相』 斎藤貴男著、角川学芸出版、1500円(税抜き)
日本での年間自殺者数は10年連続で3万人を超えている。警察庁の統計資料をみると、1978年から97年までの20年間は、年間2万~2万5000人前後で推移してきた。だが98年に3万人を突破して以来、3万人を割ったことがない。2008年の自殺者数は3万2249人に達する。これは、同年の交通事故による死亡者数5155人と比べると、実に6倍以上もの数字である。
昨年末からの経済の落ち込みを鑑みるにこの先、自ら命を絶つ人の数が減っていくとは到底思えない。しかもここ最近、自殺者の増加を肌で感じるようになった。「人身事故」の多さである。
人身事故の原因は多くがホームや踏み切りからの飛び込み自殺だという。私は仕事柄、通勤電車にはほとんど乗らない。電車に乗らない日も週のうち1日や2日ある。そんな出不精な私でもここのところ、月に1度くらいは必ず「人身事故のため電車が遅れております」というアナウンスを耳にしている。以前はそれほど多くはなかったと記憶しているが、最近は「またか」と思ってしまうくらいだ。よくよく考えると、これはかなり異常な事態なのではないか。
「働く人々の自殺」の共通項
本書は自殺増加の実態を明らかにすべく、自殺の名所や自殺未遂者、自殺で家族を失った遺族、自殺予防の活動を続ける人々を取材してまとめたものだ。著者は、これまで社会、経済、教育といったあらゆる分野において、権力ある者に対し牙を剥いてきたジャーナリストである。だが本書に関していえば、いつもの著者ならではの鼻息の荒さはやや陰をひそめている。
それもそのはず、著者はあとがきで〈仕事を引き受けたことをこれほど後悔したのは初めてだった〉と告白している。
〈自殺した人の遺族に取材した経験がないわけではなかったし、対象にのめり込むタイプでもないので大丈夫だと判断して了解したのが、ややあって実際に取り組み始めたら、苦しくてたまらなくなった。(中略)そんなふうだったせいもあり、取り上げるつもりで叶わなかった分野がいくつも残った。高齢者の孤独に耐えかねての自殺や、就職あるいは結婚で差別された人々の自殺、外国人労働者の自殺などだが、第七章までを書いたところで力尽きた〉
畢竟、本書は「働く人々の自殺」に絞られている。いじめ自殺など、若年層の自殺にもふれてはいるが、20代後半~60代くらいまでが主だ。過労やパワハラによる自殺、多重債務を抱えた末の自殺、経営に行き詰まった中小企業経営者の自殺。郵政民営化にともなって郵便局員の間で自殺が増えたことや、自衛隊で自殺が多発している実態など、本書で初めて知った事実も多い。
大阪府の茨木郵便局で集配係の班長をしていた稲積久男さんは2005年の10月、社宅の10階から飛び降りて亡くなった。享年56歳。勤続35年、部下たちの信頼も厚かった。コツコツと働いてきた久男さんの生活が一変したのは、班長に就任した2003年以降のこと。ちょうど同じ頃、郵政事業庁は日本郵政公社へと姿を変えた。
成果主義に基づく人事制度が導入され、久男さんは帰宅時間が極端に遅くなる。そして、心身ともに疲労困憊した久男さんは退職を決意し、届けを出した日の夜に悲劇は起きた。死後、久男さんが人員削減のターゲットにされ、仕事の能力についてはもちろん、服装などの細かい点に至るまで上司から厳しい叱責を受けていたことが発覚する。しかも、当の上司は職場で久男さんの死を「病死」だと説明していたという。
上記は本書に登場するほんの一例だ。とはいえ著者が〈過労や職場でのいじめ、とりわけ上司によるパワハラ(パワー・ハラスメント)などが重なってうつ病に陥り、そのまま……というケースが急増しているようだ〉と指摘するように、職場環境が原因で自殺に至る人々の姿は大なり小なり似通っている。さらに言えば、長時間労働を強いた会社側の人間やパワハラを働いた上司の多くが単なる一つの出来事として自殺を受け流し、遺族の悲しみをさらに刺激するところまでそっくりだ。
似たようなケースが多発している現在、もはや自殺は「個人の資質によるもの」とは言えず、「社会的に強いられた死」なのではないか――それが、いくつもの事例を通じて本書が訴えたかったことだ。
予防策はまだ始まったばかり
事実、社会全体で予防に取り組むことによって自殺は減少することが明らかになっている。
1990年に人口10万人あたりの自殺者が30人を超えていたフィンランドでは、国をあげて医療機関と地域コミュニティの両方向から自殺対策のネットワークを構築した結果、2004年には20.3人にまで減らしている(WHOの統計)。同じ04年の日本の自殺率は24人である。フィンランドをはじめとする自殺予防の取り組みについては、精神科医・高橋祥友による『自殺予防』(岩波新書)が詳しい。
本書にも、自殺の名所で自主的にパトロールを始めた人や、自ら自殺を考えた体験をもとに相談窓口を開設した人など、草の根で活動する人々が随所に登場する。そのうちの一人、NPO法人「自殺対策支援センター ライフリンク」の代表・清水康之氏は、
〈自殺に追い込まれていく人々は、いくつもの要因を抱えているにもかかわらず、各要因に対応する支援策にたどり着くまでのコストが非常にかかる。精神科に行って、弁護士事務所に行って、行政の窓口に行ってと、自分が抱える問題を自分自身で分析しつつ、いちいち手続きをしなければならない〉
と現状の問題点を指摘し、専門家同士の支援の連携、地域の特性にあった連携の仕組みづくりが急務だと訴える。
2006年「自殺基本対策法」施行、07年「自殺総合対策大綱」策定。国全体での取り組みは、いままさに始まったばかりである。著者はこれらの具体性や実効性について判断を留保しているものの、自殺対策が社会全体の問題として認識されたことに対し一筋の光を見い出している。
前述の『自殺予防』では、自殺は自由意志に基づいて選ばれたものではなく、「自分に残された選択肢は自殺しかない」と視野狭窄に陥ったすえの「強制された死」だと説く。そして、最後の瞬間まで人は「生きた
い」という気持ちと「死にたい」という気持ちの間を激しく揺れ動いている、とも。
い」という気持ちと「死にたい」という気持ちの間を激しく揺れ動いている、とも。
死の淵まで追い詰められてしまった人の「生きたい」という気持ちに、社会はフックをかけられるのか。自殺者が毎年3万人以上もいるということは、自殺でかけがえのない人を失った人がその数倍、存在するということだ。そのことが、世の中に暗い影を落とさぬはずはない。本書の重たく、噛み締めるような筆運びは、事の重大さと、それゆえ避けては通れない厳しい現実をそのまま表わしている。