昔、冬至の頃の出来事の記事を書いた覚えがある
ホテルのガラス越しに日射しがきれいだったことを覚えている
時間は取り返しのつかないものだ
ーー
イエス・キリストの復活はクリスマスとはまた別の日であるが
クリスマスも近くなり
また冬至から反転・復活ということも連想して
イエスの復活の事を思う
時間がたってしまっているのだから
正確な意味で復活ということもできない
時間は確かに失われたのだ
欠けた茶碗は欠けたままだし
年老いた人間の生理はどうしようもない
しかしそれでも復活は可能である
冬至の日の暗さ、寒さ、夜の長さを体験した上で復活することに意義がある
復活ができればそれに越したことはないとは誰しも思うことだろう
しかしどうだろう
それができなくても
やはり時間は人を成熟させるだろう
失われたものを慈しむ心が生まれるだろう
それだけでも成熟しているといえる
成熟するとは失われたものの価値を知ることかもしれない
ーー
失われたものを嘆くのではなく
むしろそれを芸術として形に残したいと思う
すでに起こった現実はもう変えようがない
ただ解釈を多様化することはできる
解釈を多様化することは芸術である
ーー
人生の時間の中で輝いている瞬間がある
たとえば小学一年生の時
小学六年生の親戚の女性がいた
美しい人で
その人は一度、私に会うと廊下であかんべーをした
その美しいあかんべーがいま思い出される
たった一度の事だった
ーー
人生の中で
ただの間に合わせと思っていたものが
結局人生の中身そのものになってしまうことがよくある
実際私の人生はほとんどがそうだったと思う
吟味して選んだものではないものに囲まれて
当座をしのいできたという思いが強い
しかしそのようにして人生の中身はできあがる
ーー
いま私の手元には30年前の封筒と便箋がある
30年前はPCもなくメールもなかった
もちろんスカイプもない
携帯はまだ自動車電話とかそんなものだった
学生だった私には電話は贅沢品だった
ましてや長距離電話は高額なものだった
(その後私はNTTに勤めたとき、全国どこでもただの電話というものを与えられたが)
遠く離れた二人の連絡は郵便だった
そして郵便も、天気の具合によっては、遅延するのだった
雪が深く降ってしまえば配達は遅れてしまう
それを補うためには速達便を使うことができた
手紙を書いて書き直し速達便で送り
また速達便を受け取る
そのような日々があった
当時はワープロというものもなく手書きで
書き損じるとまた書き直しだった
結局一晩かかってしまうのだった
万年筆で書き続けた
そのような30年前の歴史があって
いま30年ぶりに
その30年前の封筒と便せんに
新しい文字が記されているのである
偶然昔の封筒と便箋がありましたのでと書かれているのであるが
偶然とは思えない意志の力だと思う
30年の時はたったが
30年の長さに負けなかったと言えるだろう
保存のよい封筒と便箋であるがそれでもやはり30年の変化はあり
それらすべてを含んで伝えているのである