たとえばその人は大事な人とつらい別れに至った
そのあとしばらく閉じこもる日々が続いたのだが
アフターでみんなでお酒を飲む機会があって
これが昔の私だったなと思い出して
飲んで騒ぐようになった
でも一眠りして起きたら泣いていた
悲しいから泣くという感じもなくて
ただ涙が出てひっくひっくといいながら涙を拭いている
涙のあとはまぶたが腫れるから
腫れをとってから化粧をしないといけないのでたいへんだ
ーー
そんな話
日常生活の中でも、
微細に変性意識が入り込んでいることがある
どれが変性でどれが変性でないか
判別するのも難しいくらいのもの
どれも自分だけれど
場面に応じての自分と言うくらいのもの
場面に応じて
どのような自分を出すかについて
コントロールしている部分があって
それがセルフ・アイデンティティ部分である
こんな場面ではこんな風に振る舞うのが自分という人間であるとコントロールしている
変わった人との評価が生まれるのは、
「こんな場面」で「そんなことをする」からで、
マッチングが奇妙だからだ
「気分をかえよう」というのも
意識的に微細な意識の変性を引き起こす作業である
そこでは微細だけれど意識の不連続が発生している
宗教的な儀式は意識の変性を引き起こす
意識的で体系的なテクニックである
呼吸法がはいっていたり
香りの調合が入っている
また集団の陶酔はしばしば利用される
宗教で孤独な修行と集団の修行があると思うが
意識の変性を引き起こすシステムの違いである
人間の意識は誰の場合にも変性が可能であって
多かれ少なかれそれを利用している
演じていると言ってもいいかもしれない
身についた演じ方であれば
それはひとつの微細な意識の変容を達成していることになるだろう
人間は誰でもいくつかの変容意識を持っていて
それをどの場面でどの程度発揮するかはその人のコントロール下にある
それをコントロールしている部分というのは
やはり人格の中でも特別なコントロール部分ではないかと考えられている
いろいろな役割を演じるとしても、
やはりその人らしいということだ