ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』(以下D-G)は、ドゥルーズの著作として紹介されることが多いが、本書を読むと、その基本的な発想はガタリのものであることがわかる。本書はD-Gの執筆の材料となったドゥルーズあて書簡などをランダムに集めた草稿集で、一般の読者にはおすすめできないが、D-Gは20世紀のもっとも重要な書物であり、現在の日本の状況を考えるヒントになるような気もする。
D-Gは副題が『資本主義と分裂症』とあるように、分裂症(今日の言葉では統合失調症)を家族関係や個人の意識の中で考える精神分析を否定し、分裂症をいわば資本主義の鏡像と考えるものだ。伝統的な社会が個人を共同体に埋め込むコード化によって安定を維持してきたのに対して、君主制国家はそれを広域的な超コード化によって軍事的に統合するシステムをつくった。
ところが資本主義は、既存の秩序を破壊する脱コード化によって変化やイノベーションを生み出して利潤を追求し、それを資本として蓄積する。これは世界史上では「突然変異」ともいうべき奇妙な経済ステムで、長期的に維持することはむずかしい。事実ほとんどの市場経済は、イタリアの都市国家に典型的にみられるように、経済的には栄えたが軍事的には脆弱で、長続きしなかった。
しかし近代のイギリスから始まった産業資本主義だけは、戦争や競争に生き残り、今日ではほぼ世界の全域をおおうに至った。その秘密をD-Gは、資本主義が脱コード化によって生まれる利潤を財産権によって再コード化し、国家という公理系(制度)に回収するメカニズムをそなえていたためだと考える。しかしこのように人々につねに激しい変化を求める一方で、それを国家に統合するシステムは根本的な矛盾を抱えており、それが個人に投影されると、自己の統覚を失う分裂症として発症する――というのがD-Gの見方である。
これは現在の日本の置かれている状況の裏返しのようにみえる。日本は平和がながく続いたために、ローカルな共同体によるコード化が数千年にわたって続いたが、そこに近代以降、天皇制という超コード化が移植された。これは結果的には戦争によって破綻し、それに代えて占領軍によって脱コード化の資本主義が移植されるという変化が、わずか100年足らずの間に起こった。
したがって日本社会には、数千年にわたって蓄積されたコード化の精神構造が根強く残っており、これは戦後の60年ぐらいで消滅するとは考えられない。事実、1980年代まではこうしたコード化構造を巧妙に利用した「日本型」企業システムがそれなりの有効性を発揮した。ところが1990年を境に、この幸福なシステムが突然崩壊した。その結果、信用不安で企業倒産の激増した1998年には、自殺者が前年の35%も増えて3万人台になり、それ以後ずっと続いている。
これは「小泉改革の市場原理主義」のせいではなく、資本主義の本来そなえている暴力性が一挙に顕在化したためだと考えられる。つまり80年代までは、人々は「会社」という繭にくるまれて資本主義の脱コード化メカニズムから身を守っていたのだが、90年代後半以降、会社が破綻すると、裸の個人が絶えず変化するコードなき社会に、いきなり放り出されたわけだ。
この結果おこるのは、統合失調症ではなく鬱病である。鬱病の原因も複雑だが、現象学的にいえば「安定した人間関係の崩壊」(木村敏)が最大の原因だと考えられている。それまで有能で部下からも信頼されていたビジネスマンの所属していた企業が破綻すると、彼の組織人としての価値を支えていた集団的コードも消滅し、彼の人生の意味が失われてしまうのだ。
今の日本が豊かな国であることは事実だとしても、「幸福度」は世界で第90位であり、自殺率は主要国で断然トップだ。こうした広義の福祉を考える上で、従来の「厚生経済学」は何の役にも立たない。かといって「いのちを守りたい」と称して補助金をばらまく民主党の福祉政策がナンセンスであることはいうまでもない。資本主義の暴力が伝統的共同体を破壊し尽くした「無縁社会」で、どんなコミュニティが再建できるのか(あるいはできないのか)という問題が、日本人の真の幸福を考える上で重要だと思う。