徒然草じゃないけど、「多くはみな虚言なり」というのは、いまも昔も変わらないんだ。そして、ホンモノの教養があると虚言に惑わされなくなる。たとえば、世の中に出回っているサプリメントのうち、9割か、もっと多くは、合法的な詐欺なんだけど、どれがインチキで、どれがホンモノか、どうやって確かめる? その道の権威は、研究費を企業にもらってるから、企業のスポークスマンだし。で、自分で調べていけば分かるけど、たとえばαリポ酸がほんとに効きそうなのかどうか自分で判断するためには、かなりの基礎学力が必要だ。ミトコンドリアの中の分子化学的プロセスの話とか出てくるし。クエン酸回路や電子伝達系しくみのどこでどう働くのかとか、その証拠はどのように確認されてるのかとか、ミトコンドリアで発生した活性酸素がほんとに核膜の中まで届くのかとか、活性酸素にもいろんな種類のものがあるけどそのうちのどれにどう働くのかとか。あるあるを見て理解したような気になることはできても、あるあるの言っていることのどの部分がどこまで本当かを「確かめる」ことはできない。いい情報も多いけど、インチキ情報も多いんだよ、テレビは。ダイエット食品や若返りと称した合法的詐欺も繁盛してる。ダイエット産業は「リピーター」によって成り立っているという構造があるんだよ。金融商品なんて、もう、合法的詐欺のオンパレードだ。それらインチキ商品をかき分けて、ほんとうにオイシイ金融商品どうやって購入するのか? 日本語の情報源だけだと、ぜんぜんだめで、やはり相当な英語力が必要だ。ためしに、日本語と英語で同じ情報をGoogleしてみればもう、歴然。そして英語力だけじゃなく、多くの金融概念が必要で、それらのいくつかは数字や数学っぽい考え方にアレルギーがあると、きちんとは理解できない。つまり、教養がなくても、情報はたくさん得られるけど、どの情報が虚言でどの情報がホンモノなのかを、「確かめる」ことができない。
教養
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という意見である。
確かにそうだ。しかし教養のない人は自分に教養がないとはたいてい思わないので
無教養について「病識」のないままに過ぎてしまう。
無教養な人ほど自分が世界の基準だからだ。
自分の経験や価値観を相対化できることが教養というものだろう。
無教養な人が苦しみなく、他人にも苦しみを与えずに生きているのなら
それはそれでとてもよいことだ。
一般的な意味で言う教養は絶対値ではないから。
環境との相関物でしかないのだから。
しかし自分の考え方を相対的なものとするに至ること、
絶対の位置に置かないことはとてもすばらしい「教養」だ。
特にある程度抽象的な考え方や感じ方については訂正可能な人が多いけれど
自分の体験そのものについての考え方や感じ方については
「他人は経験していない」の一点で訂正を拒むことも多い。
人間はそのようにして体験を構成するものだから仕方がないのだし
それについての感じ方や考え方を訂正した方がいいかどうかは
ある程度多数決の要素もあるもので
歴史が進行すれば訂正不要であったと分かることもあると思う
ここで言うのはそんな大げさなことではなくて
もっと小さな認識の話